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My Do根性 Girl (4)

2015.04.12(02:11) 125






いりえくん……いりえくん……
大好きだよ!

琴子の満面の笑みが直樹の眼の前に飛び込んでくる。

ーー知ってるよ。

入江くんは……あたしのこと好き?

ーー誕生日の夜にちゃんと言っただろう?

もう一度言ってよ。

ーー安売りはしないんだ

けち。

ぷくっと頬を膨らませる琴子。

ーー子供みたいだな。
そんなんで母親になれるのかよ?

途端に不安そうな顔色に変わる。

あたし……ママになれない?

ーー琴子。そんな顔するな。冗談だよ。おまえ、きっといい母親になるよ。
二人で親になっていこう。

ダメだよ……入江くん。
あたし、ママになれない。

ーー大丈夫だから、琴子! 傍にいるから。おれがちゃんと傍にいるから……
だから……泣くな……。

入江くん、ごめんね。

さっきまであんなに幸せそうに笑っていた琴子が、目を真っ赤にして、涙をいっぱい溢れさせてーー悲しそうに呟く。
そしてくるりと背を向けて立ち去ろうとする。

ーー待てよ、琴子。何処にいく?

ごめんね………

琴子の長い髪がばさりと風に靡いて、少しだけ振り向いた琴子の白い顔を隠した。そしてもう琴子は振り返らない。

ーー行くな、琴子!

追いかけようとして、手を伸ばした途端に、ばさりと何かが落ちた。

「あ………」

夢かーー。

転た寝をしていて膝の上のシステム手帳が床に落ちたようだった。
直樹はシートベルトを外して床に手を伸ばす。

飛行機に飛び乗って以来、まんじりとしない時間を過ごしていた。
12時間近いフライトが、永遠のように長く感じる。

押し寄せてくる不安と焦燥感を忘れる為に、システム手帳に延々と数式を書き綴っていた。
いかにしてこの12時間を短くすることが出来るかと、その方法論の1つとしてアルクビエレ・ドライブのアインシュタイン方程式の一つを解析していたのだ。あくまで空想科学的思考ではあるが、物理学で証明するワープ理論の数式である。

だが、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。
眠れないと思っていたのに。
気が付けはあと二時間ほどで成田だ。

直樹はキャメルブラウンのレザーのシステム手帳を開く。琴子が何年か前の誕生日に贈ってくれものだった。手帳など使わなくても殆どの予定は記憶している。書く必要などないと思っていた。
だが社会人ともなれば記録として残しておくことも必要な場合もある。案外、琴子の贈り物の中では活用している部類だった。
だが個人的な予定は滅多に書き込まない為、スケジュール表は他の人と比べてかなり白い。
その中で、はっきりと記された月間カレンダーの花丸。

9月23日。
出産予定日である。

ーー初産って遅れるっていうよね? どうしよう、あたしの誕生日と重なったら!

ーー別に困らねぇだろ? まとめて誕生会出来て、ケーキも一個ですんで。

ーーええ? でも、絶対お義母さん、二個作ると思わない?


そんな会話をしたのはまだほんの1ヶ月前のこと。
幸せそうな琴子の笑顔がありありと思い浮かぶ。

手帳のなかに挟み込んだ一枚の写真が入っている。
琴子の母子手帳から抜いておいた、初めてのエコー写真だ。
まだ豆粒のような影でしかない、小さな命。
小さくて儚くてーーそれでもしっかりと心臓が動いている様子を、琴子と二人で瞳に刻んでいた。


『 琴子が………流産した』

裕樹の衝撃の言葉は、直樹の頭を真っ白にさせるには十分だった。
その後の行動はあまりはっきり覚えていない。
気がついたら荷物を整理し、キャリーケースに全てを詰め込んでいた。

だが全ての荷物を整理をし終わった後に、ふと冷静さを取り戻し、本当に流産したのか? という疑問がふつふつと沸き上がってきた。
ーー裕樹は切迫流産と勘違いしていないだろうか?
いや、それは勘違いしていて欲しいという希望的憶測というものだったが。

だが、確認は必要だ。今、入院しているのか、自宅療養なのか知る必要があるーー

直樹は斗南病院の産婦人科に直接電話をし、主治医の木島に確認をした。

そして、『流産』ではなく、『切迫流産』であり、それ自体は問題ないレベルの不正出血であることを聞いて、やっと初めて息をしたかのように大きく息を吐いた。
とりあえず『流産』ではないのだと。
最悪の事態ではないのだとーー。

けれど、木島医師の話によれば、妊娠悪阻が酷く入院し、精神的にもかなりのダメージを受けている、ということだった。
渡米前の、あまり顔色の良くなかった琴子の様子を思い出す。
無理をしているのではないかという気配は感じていた。それでも、直樹の為を思って渡米させようと画策していた琴子の想いを受けた方が琴子のストレスにならないのではと思って、渡米を決めたのだがーー。

ーー行くんじゃなかった。

滅多に自らの行動に後悔の念など持たない直樹だが、流石にさっさと帰ることの出来ないこの距離に苛立ちを感じていた。

ーーどうして、入院した時点ですぐに知らせなかった?

そんなの分かってる。
琴子は自分に心配させまいと必死に隠していたのだ。
琴子はそういう奴だ。
常に直樹のことだけを考えてーー

直樹は思わず大きな掌で自らの顔を覆った。

裕樹が、流産と切迫流産を勘違いしているのか、それともあえて間違えて伝えたのかはわからない。
おそらく後者のような気がする。
それくらい、琴子は切羽詰まった状況なのだと想像できた。

流産ではないと分かったものの、詰め込んだ荷物を元に戻すつもりはさらさらなかった。
直樹は隣の部屋にいる上司の平松教授に会いに行き、今すぐ帰国する旨を告げた。

「えー琴子ちゃんがっ! それは大変だ! すぐに帰国しなさい!」

平松教授は案外琴子のことを気に入ってる。以前に直樹が査問会議にかけられた時、飛び込んできたインパクト大の琴子に、興味半分ながら面白い嫁だと好感を持ったようだ。
『琴子ちゃん』ってなんだよーー内心いらっとしたが、あっさりと許可が降りたので「申し訳ありません。後は宜しくお願いします」と言い置いてさっさとホテルを後にした。





『当機は間もなく予定通り成田国際空港に到着致します………』

シートベルト着用のサインが点灯し、機内がざわめきだした。
直樹はシステム手帳を閉じて鞄に仕舞った。








「あら、入江さん、見て見てー♪ 中庭の梅が綺麗よー」

部屋に入ってくるなりベッドのカーテンを全開にして、さらには窓辺のカーテンもさーっと豪快に開けたのはチャイルドセラピストの羽田菜月である。
隣のベッドが空いたことにより窓際に移されたものの、ほぼずっとカーテンを締め切ってベッドの上から動かない琴子に、訪ねてきた彼女は真っ先に部屋に外の光を入れた。
眩しさに、思わず目を細める。

ーーああ、外はこんなにお天気だったんだーー。

もう何日外の空気を吸っていないのだろうか?

「ここは空調が効いていて分からないだろうけれど、昨日まで結構冷え込んでいたの。3月だというのに霙も降ったりして。でも今日は打って変わって暖かいわよ。予報じゃ今日は4月中旬の暖かさだそうよ。窓の下見ると、散歩している人多いわね」

ああ、そうか、もう春なんだーー

悪阻の始まった2月からすっかり時が止まったような気がしてた。

「三寒四温って、本当は冬の時期の季語なんだけれど、今は春先に使うわよね。3日寒い日が続いて4日暖かい日が続くってパターン。そしてまた寒くなって……身体が付いていかなくて体調崩しやすいけれど、3歩戻って4歩進んで徐々に春に向かってる感じがするわよね」

窓辺に立つと確かに眼下には春の花が花壇にも溢れ始めていた。

「……本当……」

羽田菜月は昨日、琴子に話を聞いた患児についての報告に来たのだと云ってこの病室を訪れた。
琴子のお陰で少し心の内側を出してくれるようになったとお礼を云われ、今日初めて少し笑みが浮かぶ。

「ちょっと、散歩してみる? 24時間点滴は外れたんでしょ?」

「え……でも、絶対安静って……」

「微量の不正出血でしょ? 無論家事をしたり動き回ったりはしない方がいいだろうけれど、車椅子でお散歩くらい大丈夫よ。どうせなら少し患者さん気分を満喫してみれば?」






「ああ、本当。外、あったかいんですね」

少し厚めのカーディガンを羽織って出たが、要らないくらいの暖かさだった。

「羽田さんは、いいんですか? お時間」

まだ就業時間中ではないだろうかと、後ろから車椅子を押してくれる菜月を見上げる。

「ああ、大丈夫よ。実は今日はお休みの日なの」

「え? いいんですか?」

「いいの。花音ちゃんにもあなたにも個人的に会いに来ただけだから」

「……仕事とプライベート一緒になってません?」

驚いたように問う琴子に、「あなたが云うの?」と、笑われた。

「あなたが、時間外に患者さんに会いにいったり相談を受けたりするって結構有名よ。話してて思ったけど、あなたすぐ他人に同調しちゃうでしょ。心から寄り添ってあげれるからみんなあなたに心を許すの、わかる気がしたわ。でも、それこそ仕事とプライベートごっちゃになって、よく叱られるんじゃない?」

「……確かに。主任にも入江くんにもよく怒られます……」

「……ふふ。入江先生が叱るのは心配だからよね。同調し過ぎて引き摺り込まれちゃうの、見てて危なっかしいでしょうね。あなた絶対カウンセラーには不向きだわー」

そう、くすくす笑う。

「あたしは一応ONとOFFは切り離してるつもりよ。心に闇を抱えてる子供たちとずっと年柄年中向かい合ってると自分も身が持たないし。花音ちゃんは手術も近いし、特別サービス。あなたもね」

「え?」

「あなたはカウンセラーには向いてないけど、セラピストには向いてるかも。存在自体がちょっとした癒しね。入江先生があなたを選んだの、分かる気がする」

「えー、そんなこと云われたの初めてかも。みんな、なんで入江くんがあたしを選んだのか、わからないって」

「そーお?」

「あたしが押しまくって根負けしたって……まあ、殆ど事実だけど」

「……根負け?」

「うん、あたしの気合いと根性で」

「うーん、入江先生が根負けなんてしない気がするけど。嫌なものは徹底して嫌がって周りから排除しそうな気がするけど」

「確かに排除されかかったけど、結局入江くん、優しいんですよー」

「………根性で押してくる人に誰でも優しくしてたら彼の周りはストーカーだらけにならない?」

「あーよく云われました! ストーカーみたいって」

羽田菜月は苦笑する。
相手に受け入れられたらそれはストーカーにはならない。多分彼女は最初から受け入れられた筈だ。医局で何度か見かけた入江直樹の印象でしかないが。

昨日も彼との馴れ初めなどを聴いていたが、根本的に彼女は多いに勘違いしている気がした。


「……ああ、そういえば」

思い出したように、菜月は告げた。

「さっき、木島先生と少し話したのだけど、あなたのお隣にいた花村さん、妊娠の継続を決めたみたいね」

「え? 本当ですか?」

琴子の顔がはっと驚いてそして少し和らぐ。

「昨日は少し情緒が安定してなかっただけじゃないかしら。耐えがたい妊娠悪阻は、みな誰でも一度はもう止めたいって思うみたいね。あたしは経験ないけれど」

「………よかった。でも、あたしのせいですよね。あんな風に詩織さん追い詰めたの」

「うーん、いろんな負の要素が重なっちゃったのね。あなただけのせいじゃないわよ。あまり気にしちゃダメよ」

「……あたしも一瞬止めたいって思っちゃいました。そしたら出血して……」

「あはは、赤ちゃんから抗議された? すごい以心伝心ね。さすが繋がってるわ」

楽しそうである。

「肉体的にしんどければ止めたいって思うのは普通よ。罪悪感を感じる必要なんてないのよ。頑張り過ぎてたあなたの方が何処か常軌を逸してた気がするわ。辛いのを我慢して、我慢して……必死で笑ってて、多分周りも見ていてしんどかったんじゃないかしら……?」

「あ………そんなに分かりやすいですか? あたし……」

しゅんとなった琴子に、
「あなたもナースとして患者さんに、辛いときは言ってくださいねーって云うでしょ?」

「それはそうですけど」

「ま、どんなに訴えられても辛さを軽減できる時と出来ない時があるけどね。でも言ってくれなきゃとりあえず分からないわよね」

「………でも……一度口にしちゃったら、もう頑張れない気がして……」

カタカタとパンジーやビオラの咲き誇る花壇の横をすり抜けながら、琴子は不安げに呟いた。

「だから、頑張る必要なんてないのよ?」

「だめです。頑張らないと、あたし……人より馬鹿だし不器用だし、人並み以上に頑張らないと。頑張って早く職場に戻らないとどんどん遅れて分からないことだらけになっちゃうし………」

「こんなときだもの、周囲の手を借りるのは当たり前でしょう? あなたの周りの人たちを信用できない?」

「……そうじゃなくて……! そうじゃなくて…! 頑張らないと……根性のないあたしはダメなんです。入江くんに嫌われちゃうから………」

「琴子さん」

菜月は車椅子を止めて、琴子の前に回り込む。
少し屈んで、車椅子に座った琴子に目線を合わせた。

「昨日、少し話した時も不思議に思ったのだけど……何故、そんな風に思うの?」














「ごめんなさい、ちょっと遅くなっちゃったわね。疲れてない?」

病室に戻った後、車椅子を畳んで、ベッドに腰掛ける琴子に菜月が問い掛ける。

「あ、はい。全然……」

「吐き気はどう?」

「今は………」

「よかった」

にっこり笑いかける菜月に琴子が少し不思議そうに訊ねる。

「あの……さっき云ってたのどういうことですか? あたしが魔法の呪文にかけられてるって」

「よく言えばね。悪く言えば一種の洗脳ーーマインドコントロールだわ」

「へ?」

きょとん、とする琴子に、「まあ、なんとなく話を聴いた限りでは、かけた方も自覚がない気がするけど」そう言って肩をすくめる。

カーテンを閉めようと窓際に立った菜月は「あら?」と窓の外を二度見した。
そしてくすっと笑って「唯一呪文を解ける人が帰ってきたわ」そう琴子に向かって微笑んだ。

「え……?」

「とりあえず、お邪魔虫は退散するわねー」

ふふふと楽しげに笑いながら出ていく菜月の背を見送りながら、琴子は「???」と首を傾げていた。


それから5分も経っていなかった。
ばたん、と大きな音をたてて、病室の扉が開かれた。

「琴子ーーっ」

肩で息をして中にずがずかと入ってきたのはーー

「い……入江くんっ?」

その顔をしっかりと確認する前に、琴子の身体はあっという間に抱きすくめられていた。

ーー入江くん………?

何も云わずにただ黙って琴子を抱き締めている直樹に、琴子はゆっくりとその大きな身体の背中に手を回す。
背中が大きく揺れている。
息が荒い。

「……入江くん、走ってきたの?」

「ああ……」

「ええっアメリカからっ!?」

「んなわけねぇだろっ!」

初めてばっと離れてお互いの顔を見つめる。
相変わらず睫毛が長くてすっきりと通った鼻筋、近くで見ると赤面してしまいそうな端麗な顔立ちに、うっとりとしてしまう………でも。

「入江くん………」

言い駆けた琴子の顔を、直樹が大きな掌で挟み込む。

「……ったく。こんなに痩せやがって」

「あ……ごめん」

骨と皮のような手首をぎゅっと握りしめる。

「……なんで連絡しなかったんだ」

「……だって……アメリカにいるのに……下手に心配させちゃうのも申し訳ないかなって……」

「心配くらいさせろ。お前のお腹にいるのはおれの子供でもあるんだぞ。心配するの、当たり前だろ……」

「え……あ、そうだね。ごめんね……」

少し悲しげな困った表情の琴子。

「……謝らなくていい。謝るのはおれのほうだし……」

「な、なんで? 入江くんは悪くないよ?」

「旦那のくせして、医者のくせしてお前の状態を分かってなかった」

「それは仕方ないよ……入江くんに知られないように……隠してたのあたしの方だし……」

そう云ってから、はっと気が付いたように、「そういえば、入江くん。なんで帰ってきたの!?」と叫ぶ。

「裕樹が……おまえが流産したって……」

「えーっ! 嘘っ! あたし、流産なんて……切迫流産というのもおこがましいくらいのちょっとした出血で……裕樹くん、どうしてそんな……」

おろおろと慌てる琴子に、「帰国する前に木島先生に電話したから、事情はわかってるよ」そう伝える。

「え? じゃあなんで……」

「悪阻で入院してるのは事実だろうが。それでかなり精神的に参ってるって」

「そ、そんなことで? わざわざ帰国させちゃったの? ごめんなさい、あたし……大丈夫だから! ほら、もう全然元気! だから……」

「だから、アメリカに戻れって? 誰が戻るか、面倒くさい!」

そう言って苛立たしげにもう一度抱き締める。

「第一全然元気じゃないだろう? なんでそんなに無理して空元気を見せる? どうせ仕事だってギリギリまで無理して働いてたんだろ? 病院で倒れたって聞いたぞ。なんで自分の身体を大事にしないんだ? なんでそんなに我慢するんだ?」

お腹に子供がいるというのに、そこまで琴子が頑なに自分一人で抱え込もうとする理由が分からずに、矢継ぎばやに詰問する直樹に琴子は目をきょろきょろさせながらもじもじと口ごもる。

「………だって……悪阻くらい気力で持ちこたえられるかなって……仕事だって休んでいられないし……これくらいで負けてちゃ……入江くんに呆れられちゃうかと」

「は?」

聞き捨てならない台詞に思わず問い返す。

「呆れるって、おれが?」

「うん」

「寧ろこの状態で無理してるおまえに呆れるけど」

「えーと、無理じゃないの! 全然無理じゃないのよ、これくらい、いつものパワーと根性で普通に乗りきれる筈なの。乗りきれると思ったの…………大丈夫だと………あたし……」

だんだん声が小さくなっていく琴子を引き寄せ髪を撫でながら「だから全然大丈夫じゃねぇだろうが」と額に額を合わせる。

「……なんでおれが呆れるなんて思うんだよ」

鼻がくっつきそうなくらい近い位置で問う直樹に、琴子は顔を真っ赤にさせながら「だって………」と呟く。

「だって、入江くん、やる気と根性のないあたしなんて魅力ないんでしょ? パワー全開でがむしゃらに頑張ってるあたしが好きなんでしょ?」

「……………!」

琴子の思いがけない台詞に、直樹は少し顔を離してうるうると瞳を赤くしている琴子の顔をまじまじと見つめる。

「今のあたし、全然ダメダメだから……入江くんに嫌われちゃうのが怖いの」

「………………………」

直樹は目を見開いてじっと琴子を凝視する。

「いっ入江くん……?」

琴子が何も言葉を発しない直樹をおずおずと上目遣いで窺い見ると、額に手を当ててからふうっと深くため息をついた。
眉間に皺を寄せた厳しい顔付きに、「入江くん、怒ってる? ごめ……」と謝ろうとした琴子の唇を突然塞いだ。

「ふ……う……んっ」

唐突にキスされて一瞬びっくりした琴子だが、すぐに目を閉じて受け入れる。
久しぶりのキス……でも少し感触が違う。
さっきから少し気になってたこと。

「入江くん……髭がちょっと痛い」

少し唇が離れた瞬間に、少し言い辛そうに囁いて、無精髭の生えた直樹の口周りを指でなぞる。
元々体毛の薄い直樹は髭も濃くないし、毎朝きっちり剃っているようで、無精髭など生やしているところなど見たことがなかった。研修医時代に3日帰れなかった時でも、仮眠の後にそれなりに身なりは整えていたと思う。
でも今日は……無精髭は生えてるわ、髪に寝癖がついているわ……実は入ってきた瞬間に気が付いていたのだけれど。

「ああ。そういえば、朝起きて顔を洗う前に裕樹から電話があったんだっけ……」

「ええーっそれからそのまんま?」

「多分……」

あまり記憶にないが。今から20時間ほど前のことだ。その間飯を食ったかどうかも定かでない。機内食にも殆ど手をつけなかった気がするから食べてないのだろう。

「そ、そんなに慌てて帰ってきてくれたの?」

琴子は目を瞠って、そして珍しげにいつまでも直樹の無精髭ーーとはいっても少しざらざらしている程度なのだがーーをいつまでも触っている。

「ああ、全くーー気付けよ」

顎から離れない琴子の手を取って引き離すと、もう一度口付ける。

「それくらいおれをパニクらせるのは、おまえだけだってことをーー」

「い……入江くぅん……」

とりあえず、色々話さなくてならないことが山積みだとは思ったが。まずは目一杯、久しぶりの唇を堪能したい。

少し長めのキスのあとに、漸く話が戻る。
「とにかく……おれは怒ってないし、嫌ってもないし……」

「本当? でも、さっき少し怖い顔してたよ?」

不安そうに訊く琴子に、「怒ってるとしたら自分にだな……何年か前の……」と、応えた。

「え?」

「いいか、琴子。よく聴けよ。おれはーー少なくとも今のおれはおまえの魅力がやる気と根性だけなんて、欠片も思っちゃいないから」

「そ、そうなの……?」

「無論、馬鹿みたいに一途で一生懸命で健気なところがおまえの良さだとは思うけれど……それ以外にも良いところは一杯あるよ」

「ど、どんなところ……?」

期待の瞳を向ける琴子に、「例えば………」言葉を紡ごうとした瞬間、コンコンと、ノックの音が。

「入江先生、いらっしゃるのかしら?」

入ってきたのは主治医の木島医師だった。

「……もしかして、お邪魔だった?」

少し寄せあっていた身体を離した二人に、あら、と気まずそうに声をかけた。

「いえ……」

少し眉間に皺の寄った直樹に、(お邪魔だったようね)とは思ったが、にっこりと木島は続ける。

「今、外科の医局から電話があったけれど、なんでも受付の方に荷物が届けられたから後から取りに来てくれって。入江先生、タクシーにキャリーケース忘れて降りたんでしょ? タクシーの運転手さんが慌てて届けてくれたみたいよ」

「ああ」

そういえばずっと手に持っていたブリーフケース以外の荷物を忘れてたな、と今更気付く。トランクに入れてもらったキャリーケースをそのままに、お金を渡すと釣りはいらないとタクシーから飛び降りて、産科病棟まで猛然と走ったのだ。

「ええええーーっ 入江くんが、忘れ物~~!?」

琴子の方が仰け反りそうなくらい驚いている。

「……なんか、外科の医局も絶叫してたわね。地球が滅ぶんじゃないかというくらい」

「大袈裟な……」

しかし西垣あたりに鬼の首をとったかのように弄られるのは面白くないが。

「ふふ。冷静沈着な入江先生でも奥さまのピンチには冷静ではいられなかったみたいね。昨夜の電話の声も地獄の底からかけてきたんじゃないかってくらい低くて、ちょっと怖かったのよ」

そう、目を丸くしている琴子にウィンクする。

「しかも、こんなに早くボストンから帰ってこれるなんて。もしかしてハイジャックでもしてきたの?」

「まさか」

自家用ジェットを持っているセレブが親父の知り合いにいないだろうかと真剣に悩んだが。

「久々の再会のところ悪いんだけど、せっかくだから入江先生に奥さまの病状を少しお話したいのだけれど、お時間いいかしら?」



直樹はそのまま、木島医師に案内され、ナースステーション横の面談室に入っていく。

中には一人の女性が座っていた。

「おかえりなさい、入江先生」

何故彼女がここにいるのだろうか?ーーと、怪訝な顔をする直樹に、彼女ーーチャイルド・セラピストの羽田菜月がにっこりと微笑みかけた。







※※※※※※※※※※※※


最後までいってしまおうかとも思いましたが、とりあえずラストに例の寓話のオチをつけなければ、と思い出し(←忘れるなよ)一旦、ここで切ります。

とにかく、この話で一番書きたかったのは『血相変えてアメリカからすっ飛んで帰る入江くん』だったのでした………。

琴子ちゃんの為にテンパってどこまで入江くんがカッコ悪くなれるかを想像するのが楽しくて楽しくて楽しくて。

とはいえ、あまりカッコ悪くなりすぎて引かれるのも何ですので、無精髭と寝癖とタクシーに忘れ物程度に留めましたがf(^_^)
(実はカッコ悪い入江くんリストを作った)

さて。多分、次で終われるかと………^-^;





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Snow Blossom


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コメント
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【2015/04/12 06:46】 | # | [edit]
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【2015/04/12 07:49】 | # | [edit]
良かったね😢💨💨入江君が、帰って来てくれて❤琴子ちゃんも、安心して、赤ちゃん産めますね🎵裕樹君の、流産したと、行ったのもある意味薬だよね⁉入江君も、かなり⁉慌てたみたい?忘れものまでして。
【2015/04/12 09:14】 | なおちゃん #weJKv.JE | [edit]
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【2015/04/12 12:12】 | # | [edit]
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【2015/04/12 18:58】 | # | [edit]
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【2015/04/12 20:51】 | # | [edit]
コメントありがとうございます♪

あまり事情を知らない心療内科医や臨床心理士よりは小児科で二人を多少なりとも知っている小児科のセラピストの方が……と思って登場した羽田さん、いい仕事してくれました。木島先生も部屋割りミスったけどその分フォローしてます。
裕樹くんの言葉でようやく事態を知った入江くん、ほんとにこんなことがないと焦らないんだからねー。何処まで琴子ちゃんの為に形振り構わず、脇目も振らず突っ走れるか。それが書きたかったので、カッコ悪くないよ、と言っていただいて嬉しいです。紀子ママさんに泣いてもらって彼も本望でしょう!
羽田さんにもう一仕事してもらって、入江くんにもきっちり琴子ちゃんの一途な乙女心を学んでもらいますね♪
【2015/04/12 23:20】 | ののの #- | [edit]
コメントありがとうございます♪

直樹らしい、テンパり方といっていただいて嬉しいです(^.^)
そうなんです、最初はそのまま流産ときいて地獄の苦しみ味わいながら機上の人となった方が、ザマーミロな感じかな……とも思ったのですが(笑)でも、確認の電話入れないほど馬鹿じゃないだろう彼は、と思い直しまして。流産じゃなくたって、裕樹の行動を思えば火急の事態と分かる筈。
羽田さんも本当にいい仕事してます。後悔にくれる直樹をもっと見たいというマロンさんのために、彼女には最後にもうひと仕事……ふふふ(^w^)
ラブラブ……頑張りたいなー。最近ラブラブからすっかり遠のいちゃってf(^_^)

マロンさんも悪阻なのに仕事されてたんですねー。いえ、看護師と保育士は女の園なので大変ってのはよく聞きます。女の敵は女ですよねー。自分が経験してる分、今の若い娘はーってなっちゃうんでしょうが……。うちの職場は仕事中に出血しちゃった娘とか、流産しちゃった娘もいるので、妊婦さんには割りと好意的です。前例がないと優しくなれないというのも何ですが……
斗南の外科のスタッフはそれなりに優しいと思ってます(^.^)

【2015/04/12 23:38】 | ののの #- | [edit]
コメントありがとうございます♪

はい、入江くん帰ってきて良かったです(^.^)
裕樹くんのおかげですね。
はい。入江くん相当慌ててます。それだけ琴子ちゃんのことばかり考えてたんでしょうね(^w^)
【2015/04/12 23:41】 | ののの #- | [edit]
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【2015/04/13 03:05】 | # | [edit]
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【2015/04/13 08:20】 | # | [edit]
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【2015/04/13 10:11】 | # | [edit]
コメントありがとうございます♪

気になりますか?カッコ悪いリスト(^w^)たいしたもんじゃありませんが、覚えていたら後書きで公開しますねー(^.^)
はい、もう猛然と帰国しました‼
勘違いしたまま帰国させようかとも思いましたが、そこはやっぱり入江くんはその辺はきちんと確認するだろうなと思い直しました………f(^_^)
はい、反省しましたよ。そして反省は続きます……ちゃんと琴子の呪縛も解かないとね♪
【2015/04/13 21:53】 | ののの #- | [edit]
コメントありがとうございます♪

ほんとに何も考えずに言ったあの言葉がこんなにも琴子ちゃんを縛っていたとは思いもよらなかったでしょう!はい、次回は反省してもらって、そしてしっかり呪縛を解いてもらいますねー♪
【2015/04/13 21:57】 | ののの #- | [edit]
コメントありがとうございます♪

はい焦ってますよ~~(^w^)
心は飛行機の中走ってるし、どうしたら瞬間移動出来るかマジに考えてますよ、このひと(爆)
そうですよね。あまり琴子の具合が良くないことわかってたのに旅立った彼は結局琴子に甘えてたんですよね。
その報いは大きいのです。
直樹の言葉は琴子ちゃんにとってどんなに重いのか言った本人が全然覚えていません。
直樹は漸く自分の放った言葉にずっと琴子が囚われていたことを知って、はい、もう大反省会が始まることでしょう。
ふっふっふっ黒たまちさんのご要望に、出来るだけお応えしたいかと。
ほんとに琴子ちゃんの為にカッコ悪くずたぼろになる直樹を考えるのは楽しいのです(黒ののの?)
それ! 実はリストに入ってました! 琴子はたぶん見落としてますね(笑)



【2015/04/13 22:32】 | ののの #- | [edit]
コメントありがとうございます♪

そうです、もう琴子のことしか頭にないのでそれ以外のことは全て忘れ去ってます(^w^)
ほんとに琴子のお陰で人間らしくなりましたよね。
自分の放った言葉の重さや、悪阻の苦しさ、全部きっちり分からないといけませんね。
ふふ、入江くんスタイル。なんやかんや甘々野郎になる気が……^-^;

羽田さん、なかなかいい味出してるオリキャラです。皆さん気に入って下さって嬉しいです。ラストにも入江くんにきっちり言ってもらいますよー♪
【2015/04/13 22:40】 | ののの #- | [edit]
コメントありがとうございます♪

はい、やっと入江くん登場です(^.^)
もう昔の喧嘩の時の言葉にずっと囚われたままの琴子ちゃん。周りが心配するほど頑張り過ぎちゃってますよね。
羽田さんもそんな琴子ちゃんの呪縛をとく術を理解できた人です。彼女には次も頑張ってもらいますよー♪

【2015/04/13 22:49】 | ののの #- | [edit]
コメントありがとうございます♪

初めまして!いつも読んで下さってありがとうございます♪
そうですね、とっても健気な琴子ちゃん……いえいえ、そんな琴子を毎度毎度辛い目に遇わせてる私の方がドSではないかと時々思います^-^;これでもM度100%だったんですが…
毎日覗いていただいてありがとうございます。癒しになれたとしたらとても嬉しいです♪はい、必ず最後は入江くんに包まれてハッピーに終わらせたいと思いますので!
お気遣いありがとうございます(^.^)そんな言葉をいただけて、私も癒されます~♪
【2015/04/13 23:57】 | ののの #- | [edit]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
【2015/04/14 13:31】 | # | [edit]
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【2015/04/14 13:57】 | # | [edit]
コメントありがとうございます♪

まあ、何度も読み返していただいているなんて、とても嬉しいです!
いえいえコメントいただけるだけでほんとに有り難いと思っています。私も自分のリコメがなんて捻りのないリコメなんだーっと思いつつ返しております^-^;
それにとっても嬉しい言葉の数々、本当に光栄です。私こそ感謝感謝ですよー(^^)
全然読み逃げでも大丈夫です。楽しみにしていただける方が一人でもいたら、頑張って書こうという想いもふつふつと沸いてきます♪
色々お気遣いありがとうございます!
【2015/04/14 20:21】 | ののの #- | [edit]
コメントありがとうございます♪

そうですねー入江くんが琴子を看病するの、レアですね。羽田さん気に入って下さって嬉しいです。はい、もう少し羽田さんには活躍してもらいます(^^)v
【2015/04/14 20:26】 | ののの #- | [edit]
拍手コメントありがとうございます♪

本当に、入江くん素早い行動、アッパレですねー(^^)v
琴子ちゃんの為にやればできるじゃん(^w^)
【2015/04/17 20:39】 | ののの #- | [edit]
拍手コメントありがとうございます♪

普段見られない尋常ではない直樹に萌えていただいて、嬉しいです。無精髭と寝癖(^w^)本当に、このシーンが書きたかった話だったので(^-^)v
自己紹介もありがとうございます♪ 大丈夫ですよー拍手コメントは非公開なので!

【2015/11/21 01:37】 | ののの #- | [edit]
忘れ物はするは、ぶしょうひげをはやしてる入江君、とってもれあーな、彼それだけ琴子ちゃんを心配してるんですよね、なんたって琴子ちゃんに対してあれだけの独占欲の彼ですから、妊婦さんでもある、琴子ちゃんをほうりだしておけるわけもなく、琴子ちゃんを誰より愛していて誰よりも大事に思ってるか、まだまだ素直になれない彼ですが、琴子ちゃんに対しては別ですよ。
【2017/03/31 19:55】 | なおちゃん #- | [edit]
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