My Do根性 Girl (2)





ーー息絶えたお姫様は、王子様がどんなに名を呼んでも、人工呼吸を施しても、息を吹き返すことはありませんでした。

王子様は茫然としたまま、何も話すこともなくしばらくそこでお姫様を抱きかかえておりました。

そして空が昏くなってきた頃、ようやくお姫様を抱いてお城へ戻って行きました。


王子さまはお姫さまの身体を誰にも触れさせず、泥にまみれた身体を洗ってやり、綺麗に化粧を施し、柩にもいれずに二人のベッドに上に横たえさせーーそしてただ何日もその傍らに座って、黙ってお姫さまの顔を見続けていました。

家臣たちは、
「早く柩に納めましょう」

「早く葬儀をいたしましょう」

「早くお墓に埋葬しましょう」

王子さまに進言しますが、王子さまは聞く耳を持ちません。

「お姫さまは本当に根性のあるかたでした」

「お姫さまは本当にがんばり屋でした」

「お姫さまは本当に物凄い気力の持ち主でした」

皆が口を揃えてお姫さまを誉め称えます。

「お姫さまはこの国の救世主です。盛大な葬儀をいたしましょう」

「お姫さまはこの国の英雄です。勲章を授けましょう」

「うるさいっ黙れ!」

王子さまはとうとう部屋に鍵をかけ、誰も入れることもなく、お姫さまと二人きりで過ごしておりました。

たとえこの国が滅んでも。
皆から蔑まれても。
どうして諦めて逃げてくれなかったのだろう。
どうして放り出してくれなかったのだろう。

どうしてーー。

あんな呪文をかけてしまったのだろう。

王子さまは後悔して。後悔して。ずっと後悔してーー。










* * *





「おかえりなさいませ」

直樹はホテルのフロントで鍵を受けとると、「私に電話はありましたか?」とフロントマンに訪ねた。

「いいえ、本日は何も……」

「そうですか……」

直樹は特に顔色を変えることもなくあっさりと踵を返し、エレベーターホールへと向かう。
誰も乗っていないエレベーターに一人乗り込むと15のボタンを押して、そして背中をだんっと壁につけて、大きなため息をひとつ吐き出した。

ボストンのH大学から程近いそのホテルは、H大メディカルセンターの用意してくれたものだった。
此方に着いて、直樹はすぐに日本の自宅に、ホテルの電話番号と研究室への直通電話の番号をFAXした。
今まで海外出張した際には滞在先どころか、日程すらきちんと連絡したことがなかったので、たいした進歩である。
研究室は職場なので余程の緊急事態以外かけるな、と云ったら「英語、喋れないからかけれないよー」と頬を膨らませていた琴子。

「ホテルに電話したら出られる?」

「……時間によっては。向こうとは13時間くらい時差があるぞ」

「こっちが夜の8時くらいに電話すればアメリカは朝の7時くらいなんだよね? それくらいならもう起きてるよね? まだ出掛けてないよね」

「おまえ、ちゃんと英語でおれの部屋に繋げてもらえるの?」

面白そうに笑う直樹に、「ホ、ホテルの人の分かりやすい英語ならきっとわかるもん!」と、自信なさげに答えた琴子。
案の定、最初の電話は裕樹がかけてきて、琴子と替わった。

「大丈夫! 次からはひとりでかけれるから!」

でもやっぱり次も裕樹がかけて。いや、一度は自分で試みたが、通じなくて結局裕樹に替わったらしい。

アメリカに滞在して4日。結局ほぼ毎朝モーニングコールのように琴子から電話があった。結局毎回裕樹頼みで。
琴子と離れて暮らしていた神戸時代はまだ研修医で、家に帰ることがあまり出来なかった為、琴子の声は留守電で聴くことの方が多かった。
しかし今回は朝出掛ける時間が遅いため、充分琴子の電話に間に合った。
話す内容は他愛もなく、前の日の失敗とか、その日の予定とかだった。そして直樹が訊くことはただひとつ。

「身体は大丈夫か? 悪阻はひどくないか? 無理してないか?」

そして、琴子の応える言葉もただひとつ。

「大丈夫! とっても順調だから!」

4日連続して来ていたモーニングコールが、5日目から突然来なくなった。
初めは夜勤が入ったのか。ならば逆に夜にかかってくるだろうか、それとも昼間に掛かってきたのだろうか? などと考えたりもした。
あるいは裕樹が出掛けていたのかもしれない。
あるいは琴子のことだから国際電話の料金のことなど考えて1日置きにしようとしたかもしれない、などなど。

3日電話がなくて、直樹の心中は妙にざわざわとしていた。
胸騒ぎとも言うべき、イヤな感覚。

琴子のことだ。夢中になることが現れると他に目がいかなくなる。ただ、それだけだ。そう、言い聞かせてみる。
何かあるーーなんてことはそうそうないものだ。

シャワーを浴びた後に、バスローブを羽織ったままベッドに倒れこみ、直樹はぼんやりと無機質な天井を眺め続けていた。


しかし結局心配を押さえきれずに、翌朝自分から家に電話をかけた。
出たのは紀子だった。

『……まあ、おにいちゃん……珍しい……』

「琴子は……?」

『こ、琴子ちゃんは、今日は友だちとお出掛けよ』

「こんな時間に? そっちは21時だろ? 悪阻は大丈夫なのか?」

『だ、大丈夫みたいよ。まあ、おにいちゃんでも気にしてるのね』

「最近琴子から電話がないけど」

『琴子ちゃんだって色々忙しいのよ……たまには貴方から電話してみれば?』

「今してるだろ?」

何となく歯切れの悪い紀子の様子に、引っ掛かるものはあった。

翌朝、琴子から久しぶりに電話があった。
紀子と同じように「あたしだって、忙しいのよ?」そう言って少し拗ねたように笑う琴子は、いつもと変わりないように思えた。

けれど。やはり少し掠れたような声は何処となく弱々しくて。

『おまえ……そこ何処?』

「え? えーと。び、病院。まだ仕事なのよ」

背後の気配から家ではないと思った。
でも、琴子が外から国際電話がかけられるだろうかーー?

何だか割りきれない思いが燻っていた。
けれどここにいる以上確め問いただすことは出来ない。
燻っているものは、ちりちりと胸の奥を詰まらせて、息苦しくさせていた。何とも云えないもやもやした形の見えない不安がどんどん拡がっていくのが感じられた。
それから2日ほど、また琴子からの電話は途絶えた。










「はぁ…………」

琴子はベッドの上から天井の升目の模様を眺めながら、何度目かのため息をついた。

ーーー入江くんに変に思われたかなー?

紀子から「おにいちゃんから電話があったわよ」と聞いて、裕樹に頼み込み遅い時間に来てもらって、病院の国際電話用の公衆電話から直樹に電話をかけた。
いつも通りに他愛ない話をしただけだが、直樹に少し不審に思われたような気がする。


「絶対、入江くんに連絡しないでください」


4日前職場で倒れ、そのまま入院となった時、琴子はすぐにアメリカに電話しようとした紀子に懇願して、なんとか止めてもらった。

「どうして……? 琴子ちゃんがこんな時に……おにいちゃんが傍にいてくれた方が心強いでしょう? 二人の赤ちゃんの為にあなた一人が辛い目にあってるというのに……」

困惑する紀子に、
「せっかくアメリカで必要とされているのに帰ってくるの、勿体ないですよ。入江くんが傍にいてくれたからって悪阻が治るわけじゃないし、こんな姿見せる方がつらいんです。それに余計な心配かけたくないし。どうせ一週間から十日くらいの入院なんだし、入江くんが帰ってくるまでには退院できて、悪阻も治まってくれるかもしれないし………」

知られないで済むならその方がいいと思ってた。

「ああ、琴子ちゃん! なんて健気なの~~!」

がしっと紀子に抱き締められて、その温かさに包まれながら、琴子はぼんやり思っていた。

ーー倒れたのが、入江くんがアメリカに行っている時でよかったーー


直樹が渡米してから気が抜けたように悪阻は悪化して、吐き気の頻度は多くなり、食欲は一切なくなっていた。
そして、職場で動けなくなり、そのまま産科に運ばれ即入院。

「ケトン体2+………重度の脱水症状と栄養不良ね。貧血もあるし。重症妊娠悪阻よ。これからケトン体が陰性になるまで絶飲絶食で24時間点滴治療します」

主治医の木島は40代半ばの女医だ。琴子の妊娠が分かったとき、最初の診察は直樹のごり押しで彼女に診てもらった。斗南では腕のいい産科医として、予約は常にいっぱいである。

「私が当直の時に、陣痛が来るとは限らないわよ?」

斗南病院の名物夫婦が揃って外来に訪れた時は驚いた。
妻の身体を男性医師に見せたくないという冗談のような噂を聞き齧ったことのある木島医師は、そう直樹に告げると「わかってますよ」と少し眉を潜めて応えたものだ。
初めて撮ったエコー写真を幸せそうに見つめていた彼女と、冷たいと評判の彼が優しく温かな眼差しで彼女を見ていたのは、ほんの3週間ほど前のこと。
彼女は点滴の管に繋がれたまま、青白い顔で横たわっている。
栄養不良状態を示すケトン体は+1で入院が必要だ。体重も妊娠前から5キロ減って、ただの悪阻ではない、重症妊娠悪阻と診断された。

「……あ、赤ちゃんは大丈夫ですか!?」

「エコーを診ても赤ちゃんは問題ないわ。順調よ。状態が改善されたら一週間くらいで退院できるから」

「そ、そんなに? 困ります! 仕事が………!」

「なにいってるの! 仕事より身体の方が大切でしょ? あなたナースなのに自分の身体を蔑ろにするの?」

そう言われて何も答えられない。

そのままベッドに縛り付けられたまま、点滴を受け続けているが、点滴は栄養と脱水の補充であり、悪阻を改善するわけではない。入院中も治まらない吐き気に結局は苛まされている。

「制吐剤、使う?」
と云われたが、子供への影響を考えて、漢方薬を処方してもらった。あまり効果はなく、絶食していて吐くものもないのに1日に何度か胃液を吐いている。


「ふう………」

ため息しかでない。
紀子が頻繁に訪ねてくれて、職場の仲間たちもちょくちょく顔を出してくれる。
その間はなんとか笑っていられるが、誰もいなくなった途端、胃のムカつきを思いだし、辛くて耐えられなくなる。


「うっう~~」

隣のベッドからいつものように呻き声が聞こえた。

「大丈夫? 花村さん……?」

琴子はカーテンを開けて隣を覗き込んだ。

産科は常に満員御礼状態だ。琴子も部屋を選んでいる場合ではなく、有無を言わさず二人部屋だった。
隣のベッドには既に入院2週間目という同じ症状の先客がいた。
琴子より4つほど若い初産の女性は、吐き気もかなり酷く常に苦しげに呻いていた。

琴子が入院した翌日には少し言葉を交わして、互いのことを紹介しあった。
結婚してまだ4ヶ月、結婚までは仙台に住んでいて、そこで旦那さんと職場恋愛をし、彼の東京本社異動をきっかけに、彼女は仕事をやめ、結婚して東京で暮らすようになったばかりだという。
それゆえ友だちもいず、常に沢山の面会者が絶えない琴子と違って、訪れるのは気弱そうな旦那さんと少しキツそうなお姑さんだけだった。
妊娠発覚と同時に襲われた悪阻のあまりの酷さを何度も訴えたが、前の病院では「気の持ちようだから頑張って」「精神的なことで改善できるから何か楽しみを見つけて」などと言われるだけで、吐いて何も食べられないのに対処してくれなかったという。
斗南に病院を変えてやっと『妊娠悪阻』という病気なのだと云われて「自分が弱くて堪えられないわけではないのだ」と分かってホッとした、などと話していた。

「花村さん、大丈夫?」

自分の点滴台を引き摺ったまま、琴子は隣のカーテンを開けて、苦しげに口許にタオルを当てて呻いている花村詩織の背中をさすった。

「あ……あたしに構わないでくれる?」

けれど、彼女は琴子の方を振り向きもせず背中で拒絶していた。
始めの頃は色々話をしたのに、最近は声をかけても返事をしないことが多い。
琴子の悪阻も酷いが、彼女は吐くものがなくて血まで吐いたという、かなり重度である。

「……でも」

言いかけた琴子の後ろから、ばたんと音がして部屋に誰か入ってきたようだった。

「まあ、詩織さん、まだ良くならないの?」

現れたのは時折見舞いに来る彼女の姑である。

「……まったく、ただの悪阻にこんなに長く入院するなんてねえ」

そう言いながら着替えやらタオルやらを出して、備え付けの引き出しに仕舞う。
あれこれ世話を焼いているのは決して嫌々ではなく、根は悪い人ではないのだろう。
だが、姑のこの悪意のないであろうセリフは恐らく彼女をずたずたに傷つけている。

「おかあさん、ただの悪阻じゃないですよ。これは病気なんです」

琴子が説明する。
同じ女同士で、妊娠の経験者でも、悪阻の程度はあまりに個人差があって、自分時と比較してもこの辛さが理解出来ないのだろう。悪阻で入院までする妊婦は1%に過ぎない。

「ああ、あなたも同じだったわねぇ。ごめんなさいね」

素直に謝る。………本当に悪い人ではないのだ。ただ思ったことをすぐ口にしてしまうだけで。

「でもあなたは割りと元気そうねぇ。うちの嫁みたいに鬱々と臥せってばかりじゃなくて」

「いえ……あの……」

「やっぱり気構えよね。少しはおとなりさんを見習って、ベッドから降りて散歩にでも出たらどう?」

「無理です………」

力なく応える彼女に、琴子も、
「詩織さんは、本当に吐き気が1日中治まらなくて、動けないんです」と、援護する。

「 吐き気止め、もらってるんでしょ?」

彼女は耐えられないからと制吐剤と胃薬も点滴してもらっていた。

「……赤ん坊のこと考えたらそんなもの使わない方がいいだろうにねぇ。そんなの使ってるわりには良くならないんだねえ」

ああ、まただ。

「赤ちゃんに悪いものは病院で出しませんよ」

琴子もあわてて弁護する。

「でもあなたは使ってないのよね? ……赤ちゃんの為に断っていたものね」

小さな声でぼそっと呟いたのは詩織のほうだった。

「え?」

「……ごめんなさい、入江さん。もう、擦らなくていいから。触られても気持ち悪さを誘発されるの」

「え? あ、ごめんなさいっ」

慌てて手を離す。
色んな刺激が吐き気を誘発するのだろう。
本当に、一人一人違うものだと改めて思う。
けれど何だか詩織は日に日に精神的に追い詰められている気がする。
琴子への対応も何だか刺々しさを感じるようになってきた。

吐き気に1日苛まされ、お姑さんからあんな風に云われーー確かに身体的にも精神的にもしんどいだろうと思う。

でも、仕事帰りに必ず寄る旦那さんはとても優しく彼女を気づかっているようだった。
そんな様子を見ていると、琴子も無性に直樹に会いたくなる。

会いたいけどーー会いたくない。
こんな自分を見られたくないから、会いたくないーーでも、会いたい。

直樹から電話があったと聞いて、嬉しいけれど複雑だ。
自分から電話がないことを気にしているのだろうか。変に思われているのだろうか。

自分のベッドに戻って一人で横たわっていると、いつのまにかそんなことばかり考えている。

入江くん、あたしのこと心配してる? 気にしてる?
少しは考えていてくれる?

まるでそうであって欲しいように考えて、ぶるぶると打ち消す。

ダメよーーせっかくアメリカまで行って大切な勉強しているのに。
心配なんてしちゃだめだよ、入江くん。
あたしは大丈夫だから。
あたしのことなんて気にしちゃ、駄目だよーー

ぐるぐると行ったり来たりする思い。

でもーーやっぱり会いたいよぉ………



「琴子ーー! どう? 調子は?」

少しうつらうつらしていたら、仕事終わりの幹が訪ねてきた。

「ああ、モトちゃん。……いつもありがとね……」

「どう? 数値は? ケトン体、少しは下がった?」

「うーん、やっと1+になったかな……」

「まだ少しかかりそう?」

「そうだね。でも来週くらいには少しずつ食べてみてって、今日栄養士さんから云われたの。まだ吐くのが嫌で食べるのが怖いんだけど」

「そっかあー」

「……ゴメンね、モトちゃん。色々迷惑かけて。仕事は回ってる? あたしの担当の人たちみんな元気?」

「日村さんと外山さんは退院したわよ」

「 そう、良かった」

「あんたの仕事はとりあえず補充が入ったから十分足りてるわよ。まあ元々産休入るまでに一人人員確保頼んでたみたいだから少し早まったんじゃない?」

「ほ、補充……? もう?」

少しどきりとする。
皆に迷惑をかけずに済むのだから喜ぶべきなのに、こんなに早く自分の替わりが入ってきたことにほんの一瞬焦りのようなものを感じた。

「うん、派遣さんだけどね。今まで地方の病院にいた人らしいの」

「……どんな人?」

「それがさー笑っちゃうの。なんか妙にあんたに似てるの。気合いと根性が半端ないっていうか、暑苦しいっていうか。熱血ナースって感じ? 女版の啓太のようなあんたのような……」

「え……?」

「31歳って云ったかな。それがまた経歴も面白くって。中卒でヤンキーだったのに、20過ぎてから突然ナースになりたいって一念発起して、高卒認定試験受けてそれから看護大受けてーー二年前にやっと国家試験に受かったっていう超頑張り屋さんなのよ。いやーあんなにパワフルでポジティブな人ってあんた以外にも実在するのね。ちょっとカンドーよ。
美人じゃないけど朗らかで、もう結構病棟の人気者よ。キャリアはあんたとたいして変わりないけど、あんたよりは確実に仕事できるから、もう、全然安心して休んでいいわよ!」

「へ……ぇ……」

琴子はぼんやりと幹の言葉を聞いていた。
だんだん言葉があまり耳に入って来なくなり、幹が何を喋っているかわからなくなる。

「そっか………」

「やだ、琴子、顔、真っ青だよ。また気持ち悪い? 吐きそう?」

「う、うん。大丈夫……大丈夫だから」

ぐるぐるぐるぐるーーー
目が回る。
気持ち悪い。
大丈夫?ーーーううん全然大丈夫じゃない。
大丈夫じゃないよ。

ダレカ……タスケテ……

「琴子?」

「あ、うん。ゴメンね、大丈夫だよ。へーあたしも会ってみたいなーその新しい人。楽しそうな人だよね」

「うん。時々あんたが居るんじゃないかと錯覚しそうになるよ。たまにドジなところとかもちょっと似てるの」

「ふうん。そんなに似てるんだー」

必死で顔に笑みを張り付かせる。

「もしかしたら、入江さんもタイプだったりして……」

にやっと笑う幹に、もう笑っていられなくなった。

「え? ちょっと、やだ、琴子、冗談よ? 真に受けないでよ? 入江さんがあんた以外に目を向けるわけないわよ」

再び真っ青になる琴子に幹が慌ててフォローする。

「……そんなのわからないよ」

「え…?」

「だって入江くん、やる気や根性のある人が好きなんだもん……」

ぽろぽろ泣き出した琴子に、幹が慌てふためく。

「あたし、今、全然駄目だし………」

「ちょっと、もう、何云ってるのよ、琴子!」

「あたし……あたし……どうしよう」

「琴子……?」

「こんなんじゃ、入江くんに嫌われちゃう……」

激しく泣き出した琴子に、暫く幹は困惑して、背中を撫で続けていた。

「馬鹿ねぇ……入江さんの赤ちゃんを宿したあんたを何で嫌うなんて思うわけ?」

「……だって…入江くんは……」

そう言いかけて、結局琴子はそれ以上語らなかった。

「本当に、あんたって馬鹿。傍にいて欲しいくせにわざわざ自分からアメリカに行かせちゃうなんて。入江さんがいなくてセンシティブになってるんでしょ?
もう、帰って来てもらうよう連絡したら? あんたが入院してるって知ったらさすがにすぐにとんで帰るでしょ?」

「……駄目だよ! それは絶対! とんで帰って来てくれるかどうかは分からないけど余計な心配かけちゃうだけだもん」

「……少しは心配させたら? 昔は少しも心配してくれないって怒ってたじゃない」

「…………」

力なく首を横に振る琴子。

「………ゴメンね、モトちゃん。もう大丈夫だから……」

少し落ち着いた琴子の傍で、幹は困惑気味に彼女の様子を見ていた。

ーーばか。少しも大丈夫じゃないでしょうが……

そして己の失言に気がついて、まだまだ自分も看護師として未熟者だわと内心反省する。

琴子は恐らく自分が抜けたことで職場に迷惑をかけることを酷く気にしている。確かに彼女が休みがちになり夜勤を減らしたことで夜勤のシフト繰りが厳しくなってはいた。
けれど女ばかりの職場のこと、誰でも通る道である。あからさまにあれこれ言うものは殆どいない。
補充が入ったことで少しでも安心するだろうと思ったが、それはそれで逆効果だったことに幹は気がついた。
自分が居なくても大丈夫だという安心は、あっさりと自分なんて必要ないのかもという不安にすりかわる。
補充が入ったということは戻る場所がなくなってしまうという恐怖にかわる。
ましてや替わりに入ったのが自分と同じタイプなら心中穏やかではなくなるというものだ。普段ならそんなにネガティブな受け止め方をする娘ではないけれど、これは相当ブルーが入っているわね、とさすがに幹も不安を感じていた。

まあ、こればっかりは身体が男のアタシには分からないか……

妊娠するとホルモンバランスが変わって些細なことに傷ついたりストレスを感じたりするとはいうけれど……その上にこの重度の悪阻はかなり苦しいはず。
なのに人前では無理して笑おうとするのが痛々しい。

「……じゃあ、そろそろ帰るけど……琴子、しんどかったらしんどいって言いなさいね? 我慢しなくていいんだから」

「うん、ありがとう。本当に大丈夫だから」

「琴子、アタシにまで別に無理して大丈夫なんていう必要ないのよ?」

「え? え……モトちゃん、何で……? あたし、別に無理してなんて」

「無理してないって、自分で本気で思ってるのなら、そっちの方が心配よ」

「やだ……モトちゃん……そんな真剣な顔していわないでよ。本当に無理なんてしてないって」

手を振って明るく笑う琴子に、幹は軽くため息をつくと、「わかったわ……」と薄く笑みを返す。

「じゃあね。食べれるようになったら、プリンとかヨーグルトとか差し入れするわね」

「うれしい!」

そうして帰っていく幹の背中を見送った後、琴子は電池がきれたように暫くベッドに座ったまま、ぴくりとも動かず生気のない瞳で、幹が立ち去った後の扉を見つめ続けていた。
再び強い吐き気が襲いかかって来るまでの束の間ではあったけれどーー。

扉の向こうは、まるで自分のいる部屋から隔絶された遠い世界のようだ………
ベッドの上で激しく嘔吐を繰り返しながら、ぼんやりと琴子はそう思った。












RRRRRRR………

ーー珍しく自分から自宅に電話をかけ、居なかった琴子が病院から電話をくれたのは2日前。それから再び琴子からは何の連絡がなく、イライラとした気分をもて余していた2日間だった。

3日目の朝、久し振りにホテルのフロントから日本からの国際電話が取りつがれた。
バスルームにいた直樹だが、電話の音が聴こえるようにドアを閉めきらないようにしていた。
ベルの音で慌てて飛び出す。


「もしもし。琴子か?」

躊躇うように暫く無言を貫く受話器に焦れるように、直樹が先に口を開いた。

「……兄貴」

「裕樹……?」

電話の向こうは予想に反して、自分とよく似た弟の声だった。
心臓の鼓動が少し速まった気がした。

「兄貴、日本に帰って来れないの?」

懇願するような、声。

「裕樹………琴子に何かあったのか?」

自分の声が上擦るのが分かる。

「僕……僕も、母さんも……もう、どうしていいかわからなくて……」

「……裕樹……いったい……」

「お願いだから、帰って来てよ。……兄貴じゃなきゃ、駄目なんだ! 兄さんじゃなきゃ……!」

裕樹の悲痛な叫び声が、何だか随分と遠くで響き渡っているように思えたーー。






※※※※※※※※※※※※※※


今週は春休みモードで娘が夜になかなか部屋に戻らず、旦那までリビングから撤退せず……さっさと寝てくれ! と心の中で毒づく私でした。

随分とお待たせてした挙げ句、ちょっとツラい展開でごめんなさい^-^;
かなり鬱々な琴子ちゃんです。

いえ、わりと実体験交えてリアルなお話目指しているワタクシですが、悪阻はまあ普通にしんどいくらいだったのです。何度か吐きましたし、もう二人目はいらなーいって思う程度には。
ただ入院する程の重度の悪阻ではなかったので、今回は色々調べて書いておりますが、皆さまの苦渋に満ちた壮絶な体験談、やはり病院の対応も治療の仕方もそれぞれ微妙に違ってたりして……それに実体験じゃないので分からない所も多く、かなり捏造はいってます。それ違うなーと思ってもスルーしていただけるとうれしいです。

裕樹が直樹に電話をするまでに至ったエピ、今回に入れるか次回に持ち越すか悩みましたが、次回に致しました。時間の流れが行きつ戻りつして紛らわしいですが、構成としてその方がいいかなーと。ええ、別に読者の皆さまをヤキモキさせる為では…………あるかも?

次が書きたかったところなのでなるべく速くお届けしたいなーとは思ってはいるのですが。
ただ、次で終われるかどうかは微妙です。(後)ではなくてナンバーが振られていたら、やっぱり延びたな、と笑ってくださいませf(^_^)


今夜はうち方面では月食見られなかったです。前回はあんなに綺麗にくっきり見えたのになー。
お城のある公園へ夜桜を見に行って、お城と桜と月食のコラボを見れないかと期待したのですが……雨がばらついて、沢山降られなくてよかったなーという状況でした。まあ今シーズンは天気がなんだかなーで花見も危うかったので、とりあえず桜を愛でられてよかったです♪





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§ Re.紀子ママ様

コメントありがとうございます♪

まあ、紀子ママさんも色々調べて下さったのですね。同じ処ググったかも^-^;
紀子ママさんも辛い悪阻時代だったのですね。私も自分も結構キツかったと思ってましたが色々読んで、私なんて甘いと思いましたもの。本当に個人差があって、誰一人同じ症状は当てはまらないかもしれません。だから完全に分かりあうことは難しいのかも……と、隣の花村さん、登場^-^;
そうですね。女の敵は女。そういえば、産科の先生も経産婦の女の先生の方が厳しくて、男の先生の方が優しかったなーと思い出しました。自分が経験してるからこそ自分の尺度で厳しくなってんだろーなとムカついた記憶があります。
それだけ繊細な問題で、同じ病名でも症状が違っていて……互いに余裕がない状態で相部屋はキツいですね。琴子ちゃんも自分もいっぱいいっぱいで寄り添おうとしても、はねつけられてどんどん二人で負の連鎖に陥りそうです。
そして琴子ちゃんを縛っているあの呪文。
直樹には琴子ちゃんがどんなにあの言葉で傷ついているのか、そのせいでどんな状況に苛まされているのか……そろそろ気付いてもらわなくては、と思ってます。
さあて、焦ってもらいますよ、直樹さんには^-^;

§ Re.マロン様

コメントありがとうございます♪

そうなんです。琴子ちゃんは入院しても、お隣さんに拒絶され気味だし、幹ちゃんに余計なこと吹き込まれるわでどんどん混迷していってしまいます。
本当に花村さんも救われて欲しいですけど、今はまだ他人を思いやれる状況ではなくて、厳しいですね。琴子とともに負のスパイラルに堕ちて行きそうです。
でも、最後はハッピーを目指しますので安心してくださいね~~(^^)

まあ、息子さん宇宙オタク。旦那がそういうの好きで息子に好きになって欲しそうだったのに、何の興味もないようです。うちの息子はただのバンドオタクになってます^-^;
月食残念でしたねー^-^;17年後か~~

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§ No title

私も、まだまだ!こんな経験がないから?わかんないけど❓たいへん、入江君、早く帰ってきてくれるといいね。

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§ Re.桜桃様

コメントありがとうございます♪

はじめまして(^^)いつも読んでいただいてありがとうございます!
やはり悪阻のお話は色々思い起こしてしまいますよね。私も過去の記憶を掘り起こして書いております。一人目は仕事していたので、気が紛れるといえば紛れるのですが、夕方4時になると必ず吐き気が……よく早退してました^-^;人によって全然違うんですよね。
はい、やっと春休み終了です♪ 割と娘が家事を昼間やっていてくれたのがなくなるのがちょっとイタイのですがf(^_^)
頑張って続き書きますね~~!

§ Re.たまち様

コメントありがとうございます♪

辛い過去を思い起こさせてしまって申し訳ありません^-^;皆さんやっぱり何年たっても悪阻の苦しい思い出忘れられませんよね~~
うちは、姑は遠くにいたので何も言われませんでしたが、近くの実の母の方が厳しかった……(T.T)
そうなんです。幹ちゃんは所詮男の子。悪阻の苦しさもこのあれこれ思い悩んで繊細になってる状況もわからないだろうけれど。結構泥沼に追い込んじゃってます。それに琴子は人前では明るくしなきゃと思ってるからなかなか辛い思いを吐き出せなくて、余計に泥沼に。本当に、ストレスはお腹の赤ちゃんに影響しますから……このままじゃどんどん悪い方向に……(T.T)もう少しお待ちくださいね。きっと誰か救いの手が現れるのではないかと……^-^;

§ Re.ジェニィ様

コメントありがとうございます♪

お子さん全員軽い悪阻だったのですね。なければないほうがいいんですよ。うらやましいです。ほんと、個人差ありますよね。
今回は琴子ちゃんもさすがに参ってます。そんな琴子に直樹さんに早く気付いてほしいですね。ええ、電話がなくて彼もかなり焦ってるんですが。扉をあけていつでも飛び出せる状態に(笑)
まあ、ジェニィさんは月食少し見られたのですね。桜と赤い月って妖艶な感じで素敵ですが……17年後、遠いですね^-^;

§ Re.なおちゃん様

コメントありがとうございます♪

そうですね、入江くん、早く琴子のもとに帰らないと、ですね。彼が戻らないと多分事態は改善しないので。
早く帰してあげれるよう頑張って書きますね~(^.^)

§ Re.ごん太様

コメントありがとうございます♪

楽しく読んでいただいて嬉しいです(^.^)
そうですよね、入江くんがもっとちゃんと伝えていたら……琴子の混迷に気付いていたらと突っ込んでしまいますよね。まだまだ彼も人間として発展途上中。琴子の妊娠はおおいに彼をステップアップさせるでしょう……^-^;
それまでハラハラさせちゃいますが、少しお待ちくださいね!

§ Re.無記名様

拍手コメントありがとうございます♪

はい、今回琴子ちゃんかなり体調不良で苦しんでます。辛い目に合わせちゃってごめんよーって感じですが、新鮮に感じていただいて嬉しいです(^^)
ふふ、裕樹くん喋っちゃったので……直樹さんがどう出るか……お待ちくださいね(^.^)

§ No title

でも!カンちゃんと、真里菜の、友達グループて、たまに、毒はきますよね?いいんだか?わるいんだか?なんか?わかんないですよね。

§ Re.なおちゃん様

再びのコメントありがとうございます♪

そうですねー幹ちゃんたちは初めの頃は結構、毒はいて琴子弄ってましたよねー。でもこの頃はなんだかんだいい仲間だと思います♪

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§ Re.無記名様

コメントありがとうございます♪

まあ、悪阻で入院されてたんですね!
検索して色々体験記調べましたけど、本当皆さん大変そうでした。辛い記憶を思い起こさせてしまってスミマセンでした。
本当に、そんな苦しみを乗り越えて出産している人たちはみんな素晴らしいですよね。
がんがん誉めましょう♪

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