彼の瞳の向こうには





更新おそくなりましてごめんなさい。
ご心配おかけしました。なんとか風邪は治りかかってます(^^)v
外に出るとビミョーに鼻がやな感じがしますが、まだ生活に支障が出るレベルではないので、気のせいと思うことにいたします(^^;

今回のお話はある方のリクエストにお応えして書いたつもりなんですが、ハズしてるかもしれません^-^;

時期としては2000年の5月くらい。琴子ちゃん妊娠中です。西暦シリーズのカテに入れられなかったのは1日のお話ではないから。なんか適当に始めたこのシリーズ、自分で作った制約に首絞められてます……(^^;








※※※※※※※※※※※※※






「ごめんね、琴子。妊婦さんにわざわざ来てもらっちゃって」

「ううん、いいのよ。あたしこそごめん、夕希ちゃん具合悪いのに。大丈夫?」

その日ーー桜の季節もとうに終わり、新緑が眩しい暖かな午後ーー琴子は久しぶりに親友の理美のマンションを訪れていた。
まだ殆どお腹は目立たないが、琴子はただいま妊娠5ヶ月。かなり酷かった悪阻もやっと落ち着いて、安定期に入ったところだった。

今日は母親としては先輩の理美から、マタニティドレスのお下がりを貰いに来たところだった。
義母紀子は「新品を買えばいいのよ?」と言ってくれたが、やはり一時期着るだけのものと思うともったいない。

「今、少し眠ってるけど、さっきまで頭痛いってグズってて………」

「熱は下がらない?」

「うーん、解熱剤で一旦下がったけど………ずっとぐずぐずで機嫌悪いの。さっきようやく寝たところ」

「……そう。心配だね」

「うん……あ、これ服ね。要らなかったり着れなかったりしたら捨ててね」

理美は大きなブティックの紙袋を琴子に渡す。

「ありがとー! 助かるわ」

「ほんとなら上がってお茶でも、っていいたいけれど、夕希が感染(うつ)る病気だとまずいわよね。妊婦さんに……」

理美の心配そうな顔に、琴子は鞄からマスクを取り出すと、
「大丈夫だよ! これ持ってきたし」と、にっこり笑う。

「 病院に勤めてるんだもの、ここより職場の方が感染の可能性は常にあるわ。最近は内科や小児科といった、感染しやすい部所の応援は避けてもらってるけど、あまりワガママも云えないからそれなりに自己防衛はしているのよ」

「じゃあ、上がってく?」

「お邪魔してよければ。夕希ちゃんのこと、相談したかったんでしょ?」


夕希が生まれてから何度か遊びには来ていたこのマンションだが、琴子が看護婦になって丸2年、忙しさのあまり以前より訪問する回数は減っていた。
デキ婚の若い夫婦には少し不相応な高級マンションである。
世田谷の高級住宅街の戸建に住んでいる琴子が「きゃー素敵っマンション住まいってちょっと憧れる~」と呟いて、じんこに笑われたこともある。

「だって、ご近所がこんなに身近で沢山いるんだもの、心強くない? わあ、スッゴい窓からの景色がきれい!夜景なんて見事だろうなー! それに下に病院もジムもコンビニもあるなんて便利ーー!」

無邪気にはしゃぐ琴子に理美が呆れ顔を見せたものだ。

「隣に誰が住んでるかも知らないわ。都会の近所付き合いなんてそんなもんでしょ。確かに利便性だけはいいわね。でも、それだけよ。夜景なんて毎日みてても飽きるわよ」

全部姑に仕切られて若干不満ぎみだった理美は、姑との仲に何一つ問題のない琴子のことを羨んでいるのだと、内心わかってはいるのだけれど。
少々すげなくばっさりと返したが、琴子は特に気にすることもなく、「ふうん、そうなんだー」ときょろきょろと部屋を物珍しげに見ていたものだった。


「あ、これうちのお義母さんから」

スリッパを用意してくれた理美に義母紀子特製の焼き菓子を差し出す。
こうした時の手土産に必ずささっと準備して持たせてくれる有難い姑である。

「ありかとう。琴子はいつから産休とるの?」

リビングに案内しながら理美が訊ねた。

「とりあえず何も問題なければ二ヶ月前までは働こうかな、と思ってるの」

「看護婦なんて仕事は妊婦にとってハードじゃない?」

「確かに大変だけど……職場のみんなも色々協力してくれるから、甘えてるの」

ふふっと笑う。

「夜勤はなくしてもらったし、担当も減らしてもらったりして申し訳ないくらい。悪阻でも相当休んでかなり迷惑かけてへこんだけど、苦労してやっとなれたから、辞めるなんて選択は有り得なくて………」

「そうだね」

「もうこのまま辞めた方がいいんじゃないかってくらい落ち込んだ時もあったけど、入江くんと話し合ってすっきりしたの。今は開き直って甘えようって」

理美から香りのよいハーブティを出される。

「入江くん、協力してくれる?」

「そりゃ、もう。驚くくらい優しいの。さりげなく色々と手伝ってくれるし。もっとも仕事には相変わらず厳しいけどね」

「へえーびっくり!」

「パパママ教室も参加してくれるっていうし」

「はあーなんか想像つかないや。まあ、結婚6年過ぎての待望の赤ちゃんだもんね」

「うん」

幸せそうに微笑む琴子が眩しい。



「ママー………」

隣の和室から夕希のか細い声が聴こえた。

「夕希、起きたの?」

今日訪問することは1週間くらい前に約束していたのだが、昨夜理美から「夕希が熱を出してちゃって」という電話があったのだ。
当然琴子は訪問を止めるつもりだったのだが、「病院で診てもらって、薬も飲ませているのに症状が収まらなくて」と凄く不安そうに話してくる理美自身のことが気になって、琴子は朝、病状を確認する電話をして、午前の診察でもう一度病院に行くよう指示しておいたのだ。

とりあえず夕希が風疹や麻疹、水疱瘡におたふくといった妊婦が罹患するわけにはいかない感染症の予防接種は済んでいることは確認済みだ。

「夕希ー大丈夫?」

理美は心配そうに、リビングの隣の和室の引き戸を開ける。
もうすぐ4歳になる夕希は和室に敷かれた布団の上で寝ていた。
琴子は念のためマスクをしっかりして部屋に入る。

「病院は? 今朝も連れてったんでしょ?」


「うん。血液検査はされたけど……はっきり何とはわからないみたいで」

「 今日で3日目か……今もお熱あるのかな?」

琴子は、苦しげに目を瞑っている小さな夕希の額に手を当てる。額の上の冷却シートは既に熱くなっていた。

「病院では39度あったの。解熱剤飲んで少しは下がったけど、午後からまた上がってきたみたいで……頭痛いってぐずるし……なんだか不安になってきちゃって。どうしよう、琴子。まだ一晩様子見た方がいいのかな?」

「起きてる時、意識ははっきりしてる? 朦朧とはしてない?」

「うん。機嫌は悪いけど、話したりテレビみたりはしてるの。食欲はないけど全く食べないわけじゃないし。水分も摂ってくれるし」

「吐いたりしない?」

「うん、それはない」

「もうインフルの季節は過ぎたけど……検査はしてくれた?」

ほぼ患者はいなくなったが、全国的にはゼロではないと聞いていた。

「うん。陰性だった」

「夏風邪の時期にはちょっとまだ早いよなー」

プール熱やヘルバンギーナといった小児特有の夏風邪が流行するのは季節が変わり始める梅雨のころから。斗南病院でもまだ報告はない。

「最近、入江くん小児科の教授と小児外科関連の論文書いてるから、小児科の医局によくいっているの。今は特に目立った流行は聞いていないな。………血液検査はしたんだよね?」

「うん、今日やって、炎症反応が高いって云われた。別の抗生剤処方されて、下がらなかったらまた来てって」

ウィルス性の感染症なら抗生剤は効かない。一晩様子を見て解熱しなかったら明日は総合病院を紹介されるだろう。

「検査結果の用紙ある?」

琴子は理美から小さな紙を渡されて、じっと見つめる。

「な、何か分かるの?」

不安げに問う理美に、琴子は「うーん、あまりいい数値じゃないね。白血球数も多いし……」

そしてもう一度夕希の顔を覗きこむ。

「……あれ、この唇、カサカサに割れて血が出てるの、いつから?」

「ああ、今日からかな。乾燥してひび割れたのかもって云われて加湿してるけど」

琴子はじっと唇を見て、「ちょっとごめんね」と言いながら唇を開いて舌を見つめる。それから夕希の手を取って、その指先をじっと見つめた。
首筋に手をやりリンパの腫れを確認する。

「身体に発疹とかある?」

「ううん。今日はなかったけど」

「………下のクリニックって、小児科は専門の先生じゃないよね?」

「確か看板は掲げてるけど、内科とリュウマチとかの患者さんが多いような……」

琴子は「ごめんねー夕希ちゃん」といいながら、パジャマを捲り、身体に発疹がないか確認する。

「……発疹はないみたいね……手足口病に症状は似てるけど、流行には早いし……こんなに熱は出ないと思うの」

「琴子、なんか看護婦さんみたい」

理美が思わず驚嘆の声をあげる。

「看護婦ですけど? これでも」

軽く睨んで、それから少し真面目な顔で理美に告げる。

「……あたしなんかの見立てじゃ心配だろうけれど……妊娠発覚前まではちょいちょい小児科に応援行くこと多くて、同じような症状の患者さん、何人か見たの。とりあえず、今から斗南病院に行こう」

「え? え? 今から? でも、午後からは外来やってないよね」

「うん、救急窓口に行けばいいよ。あ、多分入江くんも今日小児科にいってるから、電話しとくね」

「え、あ、うん」

「理美はタクシー呼んで。それから、着替えとか入院の準備して」

「にゅ、入院?……え? 何の病気なの?
ね、ねぇ大変な病気なの?」

真っ青になる理美に、琴子は落ち着いた声で告げる。

「すっごく大変な病気とかじゃないから安心して。ただ大変なことになる可能性もあるから、早く治療を開始した方がいいと思うの」

「 だから、なんていう病気?」

「……あたしの判断じゃ確定は出来ないけど……………」

琴子は、理美には全く耳慣れない病名を告げた。








自分で車を出すと言い張った理美を、タクシーの方が安全だし、めちゃくちゃ急ぐ必要もないからと言い諭し、タクシーを呼んで乗ったのはそれから20分後。
生まれてから一度も入院するような大病を患ったことのない夕希だった為、このような事態は初めてで、手が震えていたのが分かった。
琴子の言う通り、タクシーにしてよかった、と思う理美である。

それにしても。

夕希が生まれる時、理美の突然の陣痛にはちゃめちゃにパニクって、無免許なのに自分で車を運転してしまった琴子と同じ人物と思えないくらい、今の琴子は冷静だった。

それに比べて、自分は夕希が一昨日からの尋常でない熱にうなされてから、落ち着かず不安でおろおろするばかりだった。夫の良は出張で明日まで帰らない。
姑には相談したくなかった。
実を云うと琴子に相談したからって何か解決するとは思ってなかった。
失礼とは思いつつもあの琴子である。
出来れば注射とか点滴とかは自分と娘には絶対やってもらいたくないものだとリアルに思ってる。
それでも曲がりなりにも看護婦をやって2年。相談するだけでも安心するかもと、昨日電話をかけたのだがーー。






「その病気……どんな病気?」

タクシーの中で、理美は琴子に夕希が罹患したかもしれない病についてのレクチャーを受けた。

「公害病なの……?」

「あー違うわよ。都市の名前と同じで公害病と勘違いされるけど、全然関係ないから。発見したお医者さんの名前がついただけなの。えーっと小児急性熱性皮膚リンパ………なんだっけ? うーん、とにかく原因不明の子供の病気で血管が炎症起こしちゃうの」

「原因不明!?」

「原因はわからないけれど、多分感染症の一種って言われてるの。でも人から人には移らないから。それに治療法も確立されてるから安心してね。とにかく入院して点滴受けないといけないから」





詳しい説明を受ける前に病院につき、琴子に従って受付をすませ、ぐったりとした夕希を抱いたまま、診察室にすぐ通された。
それが病院関係者の顔パスのお陰なのか、病状のせいなのかわからず余計に不安に感じる。



処置室で一人検査されている夕希を残して、理美は間仕切られたカーテンの向こうで青ざめたまま椅子に座っていた。

「はい、理美」

琴子が理美に温かい缶コーヒーを差し出した。

「ありがとう。ごめんね、琴子。せっかくの休みだったのに」

「いいわよ。逆によかった、休みで」

にっこり笑う琴子の様子は、普段とたいして変わらない。だから重篤な病ではない、というのは本当なのだろうと少しだけ気持ちが和らいだ。



「琴子」

カーテンの奥から直樹が現れた。
白衣姿の彼は颯爽としていて、そこにいるだけで絵になる。理美は思わず、琴子のヤキモチも絶えることはないだろうなぁと密かに思う。

「入江くんが診てくれたの?」

「まさか。小児科の杉谷先生のフォローに入らせてもらった。知り合いだからって無理無理ね」

「本当? ありがとう」

満面の笑みを浮かべる琴子。
けれど理美は立ち上がり直樹の前に食らいつくように問いかける。

「夕希は!? 夕希はどうなの?」

「高宮、落ち着いて。主治医の杉谷先生から説明があるから」

「入江くん、心エコー診た?」

「ああ。今のところ心臓に問題はない」

直樹の答えに琴子は安堵のため息をついた。

「良かった。理美に大丈夫っていいながらもそれだけが気になって」

「し、心臓って」

驚く理美に、
「大丈夫よ、心臓に冠動脈瘤が出来る可能性がある病気なの。でも発症の可能性は少ないから」理美の肩を擦って落ち着かせる。

「か、冠動脈瘤?」

ドラマで聴いたことがあるような、ないような、という感じの単語である。何だかやっぱり大変な病ではないのだろうか………


「冠動脈瘤を起こすのは発症者の10パーセントくらいだから。杉谷先生は小児心臓外科の専門だし、今は問題ないから安心して!」

「琴子。まだ確定診断も出てないのに安直なこと言うな」

「はあい。ごめんなさい」

軽く舌を出す琴子に、まだ不安げな理美は直樹に問い掛ける。

「本当にあのこ、そんな病気なの……?」

「多分可能性は高い。すぐには確定できないがこのまますぐ入院して治療を開始すると思う。24時間の心電図監視と、血液製剤の点滴投与をするから。琴子みたいに絶対大丈夫とは簡単に言えないけど、致死率はわずかだ。殆どの患児が何事もなく完治して退院する病気だから」

直樹に云われて少しほっとする理美は、看護婦に呼ばれて主治医のいる奥の部屋に入っていった。


「琴子」

直樹はベンチに座ったままの琴子の頭をふわっと撫でた。

「よく見つけたな。この病気は小児科専門医じゃないとなかなか見つけにくいのに。治療開始は1日でも早い方がいいからな」

「へへ。やっぱ小児科に応援入ってたお陰だね。実地って大切だよね。教科書や、病例の写真見ただけじゃ絶対気づかなかったと思う。入江くんの側に居たいからってずっとこのまま外科に居れたらなーって、思ってたけど、経験を積むには色んな領域を回った方がいいのかなってちょっと思ったりした」

1年前、自信がないから耳鼻科に移りたいと泣いていた時と大違いだ。
常に直樹の傍らにいたいが為というのが大前提で何事も邁進してきた琴子が、看護婦という仕事にしっかりと目を向けて地に足をつけて進もうとしていることが、嬉しくも思うし、どこか寂しくも思う。

ただ、もうすぐ産休に入らなくてはならないのが悩ましいところだ。
せっかく付いた自信が1年以上のブランクで損なわれてしまう可能性もある。

「おまえの体調は? 大丈夫か?」

「あたし? 絶好調よ」

力こぶを作ってにっこりと直樹に見せる琴子の頭をぽんと叩くと「無理すんなよ」と耳元で囁く。
ぼんっと真っ赤になった琴子のお腹を軽く撫でながら「親友の為にお前が無茶をするのは昔からだけどな。まず第一に自分とこの子のこと考えてくれよ」と、優しく言い諭す。

「やーん、優しい、入江せんせ」

「いいわねーー」

通りがかったナースが羨ましげに二人の様子をちらりと見ていった。

直樹のあまりの冷血っぷりに仮面夫婦と噂されていた二人だったが、琴子の妊娠はあっという間に病院中に知れわたり、多くの女子職員を卒倒させたとか早退させたとかいう逸話もあるくらいだ。そして今はすっかり過保護の愛妻家と評判である。

「うん、わかってる」

愛し気に自分のお腹を擦ってくれる直樹にそう応えると「じゃあ戻るな」ともう一度軽く琴子の髪を撫でて、立ち去っていった。

「あ、あれが、入江くん……?」

ちょうど話が終わって出てきた理美はその様子を目撃し、かなり仰天していた。

「変われば変わるもんねー」

「うーん、初期のころ、悪阻とか酷いのにかなり無理して入院しちゃったからかなーそれから妙に優しくって」

妊娠は嬉しかったけれど、母親と看護婦が両立出来るのかとか、現場を1年も離れる不安とかで早々にマタニティブルーになっていた数ヵ月前。

「女って損だよね………」

ぽつりと呟く理美は予定外の妊娠で人生設計の変更を余儀なくされた。悔やんではいないし、夕希の誕生は嬉しかったし、経済的に裕福な環境で皆から羨ましがられるけれど、全てが順風満帆なわけではない。小さな波風は毎日のようにざわざわと現れる。

「うーん。でも、あたし女に生まれてよかったよー。でなきゃ入江くんに恋しなくて結婚もしなかったもん。そんな人生考えられないし」

「そっか」

「色々大変だし、これからもっと大変だろうけど……入江くんも家族も友達もいて支えてくれるから、何とかなるかなって思えるようになったの」

「………うん」

「理美も夕希ちゃんいて幸せでしょ?」

「もちろん」

自信たっぷりに理美は応える。

「あ、夕希ちゃんは?」

「 うん、琴子の云う通り入院になったから。今病室の準備するって」

「そう……」








その後、主治医からの説明を受けた理美はばたばたと夫の良やそれぞれの実家へと連絡をするために公衆電話へと走り、替わりに琴子が病室に運ばれた夕希に付き添う。
ナースステーションに近い二人部屋だった。
未就学児は親が付き添うことを基本的には希望しているので、この狭い空間、苦しむ我が子に24時間付きっきりで過ごすのは精神的にも肉体的にも大変だろう。


「 あ、ごめんね、琴子」

「大丈夫。みんなに連絡ついた?」

「うん、お義母さん大騒ぎで大変だった。すぐに来るって言い張るし」

「交代要因は多い方がいいから、助けてもらえる手は全部借りた方がいいよ。理美がまいっちゃうからね。やっぱり熱が下がるまでは落ち着いて眠れないかもしれないし」

「ありがとう、琴子」

「後で、担当のナースが入院説明しにくると思うから。たくさん書類にサインしなきゃならないけど」

「うん」

「それと薬剤師さんも訪ねてくると思う。投与するガンバグロバリンは血液製剤だから説明と同意書のサインが必要なの。わからないことは何でもきいてね。血液製剤って聴くと不安になるだろうけれど、今のは殆ど安全な処理がきちんとされているから」

「うん」

「 それから……」

言いかけた琴子に、突然理美がガシッとしがみついた。

「理美!?」

「………琴子が居てくれてよかったぁ………」

「理美…………」

「琴子がナースになってくれてよかったよぉ……」

「………うん」

理美の背中を擦りながら、琴子も思った。

ーー看護婦になってよかった………









その後。
二日ほどで漸く熱が下がり始めた夕希は、懸念された冠動脈瘤の併発はなく、無事1週間後に退院を迎えることになったのである。


「はい、夕希ちゃん、退院おめでとう」

休憩時に少し抜け出してきた琴子は、白衣を着たまま小さな花束を持って小児科病棟を訪れた。そしてナースステーションの前で手続きをしていた理美の横で、大人しく待っていた夕希にそれを渡す。

「わーい、こっこちゃんありがとう」

夕希は花束を抱えてにっこり笑う。
もうすっかり元気になったが、唇の荒れだけが残って痛々しい。

「あのねーまだお口いたいの。パパとママにチューできないの」

「昨日、皮膚科を受診してお薬塗ってるの。これだけは時間薬って云われちゃって」

理美の説明に、琴子は夕希の唇の状態を見ながら「うーん、可哀想だけど、確かに時間が経てば治るから、大丈夫だよ。治ったらパパとママにいっぱいチューしてね!」

「うん! こっこちゃんありがとう! こっこちゃん大好きー」

「ありがとう、こっこちゃんも夕希ちゃんのこと大好きだよー」

琴子は夕希をひしっと抱き締める。

「えらかったよねー、毎日お注射もしたし、検査もしたし」

「あたし、お注射怖くないの! ゼリーむにゅむにゅつける検査も好き」

「え?」

驚いて理美を見る琴子。

「この子、割りと注射平気なの。それに小児科の看護婦さん、みんな注射も点滴も上手で」

「こっこちゃん小児科じゃなくてよかったーってママ云ってるんだよー」

「理美ーー!」

「ははは。ごめーん」

とりあえず元気になってよかった、と晴れやかな二人の顔を見て心からそう思う琴子である。

「この子、心エコーの検査が気持ちいいって気にいっちゃって」

「そ、そうなの? しばらく定期検診の度に検査があるから、よかったね、というべきなのかしら?」

「次は一週間後だけど、段々間隔を空けて年に1回は心エコーチェックを数年続けた方がいいって云われたの」

「再発も稀だけどあるの。面倒だけど受けてね」

「まだ、発見されて30年くらいしか経ってない病気だから、年をとってからどんな影響が出るかどうかわからないとも云われたの」

少し不安げな顔を見せる理美に、無理ないことだと思う。

「心筋梗塞や動脈硬化の心配だろうけれど、それは年をとって生活習慣が悪ければ誰でもある心配だから」

「うん、そうよね。先のこと不安がっても仕方ないよね」

ふふっと、笑う理美の背後から、理美の夫の良が息せきって現れる。

「手続き済んだか? おふくろが退院祝いするって家で準備してるから」

「はあー久々な家なのにのんびり出来ないのかー」

「まあそう言うなよ」

苦笑しながら荷物を持つ良は、琴子に深々と頭を下げる。

「なんか毎度毎度ことあるごとに色々お世話になっちゃって」

「いえ、あたしは何も。あ、まだ休憩時間あるから玄関まで見送るね?」





入退院出入口の玄関先で、「じゃあ俺、車玄関先に持ってくるから」と、行ってしまった良を待ちながら、三人は入院中の噂話に興じる。
4歳児の夕希まで杉谷先生は優しいとか皮膚科の先生は格好いいとかいっぱしの評論家だ。

「でも、一番格好いいのはやっぱり入江くん先生だよ」

にやっと夕希が笑う。

「そ、それは当たり前でしょ」

「何が当たり前だって?」

後ろから聞き覚えのある声が響いて、三人が同時に振り返る。

「「入江くん!」」

直樹が青い医療用スクラブを着て立っていた。

「あれ、入江くんその格好……手術の後? もしかして」

「いや、簡単な処置があっただけ。休憩しようと思ったらおまえいないから、多分こっちだろうと」

「えー? 休憩あたしと一緒に取ろうと捜してくれたの? うれしー」

はしゃぐ琴子に、「ばーか、夕希ちゃんの退院今日だったな、って思い出して捜したんだよ」と、デコピンする。

「ありがとね、入江くん。入院中も何度も夕希の様子見に来てくれて。生まれた時もさんざんお世話になったけど、またこんなにお世話になっちゃって、ほんと二人には頭が上がらないわ」

「医師と看護婦なんだ。当たり前だろ?」

「ふふ、でも、わざわざ小児科病棟まで来てくれたのはあたしが琴子の親友だからでしょ? お陰で小児病棟のナースたちから感謝されたわ。入江先生の姿がしょっちゅう見られて嬉しいって」

「あたしも同じ部屋のお友だちから、いいなーって云われてたんだよー。たまにパパに間違えられたりしたの」

「 ええー? そ、そうなの?」

青ざめる琴子に「ほんと、相変わらず苦労するわね、モテすぎる旦那を持つと」
そう云って、肩に手を掛けてにやっと笑う理美。

「……ったく何焦ってんだよ、今さら」

「入江くんに対して自信のないことは変わらないわね、ちっとも」

「うっ……そ、そんなことないわよ。もうすぐママになるのよ、あたしだって。ちゃんと愛されてるって信じてるもん」

「妻が妊娠中には夫が浮気しやすいとか桔梗たちに吹き込まれて、疑ったのは誰だよ」

「えっ ……そ、それは……」

「やだーそんなことがあったのー?」

けらけらと笑う理美。夕希が完治してその笑顔も屈託がない。

「あ、パパ来たー!」

そんなやり取りをしている間に良が車を玄関先まで付けたようだ。

「じゃあ、ほんとにありがとね。二人にはスゴく助けられたわ」

「二人じゃなくて、琴子には、だろ? おれは何もしてないよ」

「ふふ、今回ばかりはそうだね。琴子のお陰で救われたわ。琴子……凄いなーちゃんと看護婦さんやってる」

ろくに社会人としての生活をまともに経験しないまま主婦に母親になってしまった自分。同じ主婦なのに、琴子がしっかりと自分の力で生きて、スキルも身に付けて行く姿が眩しく映る。

「……高宮もちゃんとお母さんやってるだろ? 親としてはずっと先輩だからな。これからよろしく頼むよ」

「うん、任せて」

そう言ってぺこりと頭を下げて、先に父親のいる方に走っていった夕希の後を追う。

「じゃあねー! また遊びに行くねー」

いつまでも手を振って声を掛け続ける琴子。
もう一度理美が振り返ると、二人並んで見送ってくれていて気恥ずかしい。

………あれ?

ふと理美は気付く。

なんだ、入江くん、あたしたちを見送ってくれてる訳じゃないじゃない。

そこそこ視力のいい理美は気が付いてしまった。
直樹の視線の先は自分たちの方ではなくて。
自分たちを心から嬉しそうに見送っている妻の方にあると。



ーーはいはい、入江くんの関心はそっちってことね!


多分、琴子の成長に感嘆の思いを抱いたのは自分以上に、彼なのではないのかと。
きっと琴子はわかってないんだろうなあと思いつつ。
この数日間の入院生活で、随分と分かりやすくなった直樹の変化に、何度も驚かされた理美であった。






「よかった、夕希ちゃん、無事退院出来て」

「……そうだな」

車が視界から消えてもいつまでも玄関先に立ち尽くしている琴子に、「そろそろ休憩時間終わるぞ」と声を掛ける直樹。

「あーっ大変!」

慌てて廊下を走り出した琴子の腕を掴み、「走らなくても大丈夫だし、まず走るな!」と、自分の方に引き寄せる。

「はーい」

頭を掻きながら直樹を見上げると、叱責したわりには随分優しい顔をしている。
少し嬉しくなった琴子は、警備室の窓口を通り過ぎた途端に、直樹の腕に絡みつく。

「おい。何やってんだ」

「へへっ誰もいないからいいじゃない♪ この廊下の間だけだから。ロビーに出るまでね!」

珍しく振り払わない直樹の腕に掴まりながら、琴子は足取り軽く職場に戻っていく。

「……母親になるって………大変たけど…いいね」

「ああ」

「早くなりたいなーお母さんに」

「……予定より早く生まれてこられちゃ困るぞ」

「……そうだけど」

多分まだ色々なことが生まれるまでに起きそうな予感はあるけれど。

でも、きっと大丈夫ーー。

直樹は愛しい妻の横顔を眺めながらそう思うのだった。
















※※※※※※※※※※※※





長くなってしまったので、後書き的なものを続けてアップしますね(^^)







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§ No title

琴子ちゃんも、成長だけど?入江君も、ある意味、成長したんだよね、お互いの、成長を、確認し、会える、関係ていいな?

§ Re.マロン様

コメントありがとうございます♪

お気遣いいただきありがとうございました。まだ完全ではないですが、とりあえず元気です(^^)

そうなのです。つい身近な体験をネタにしてしまうとんでもない母です。娘はそこそこ大きくなってからの罹患なので、重症化せずに助かりました(^^)v

本当に琴子ちゃん、あんなにドジなのに医療ミスにならない……不思議ですが、それに関しては本人も自覚してるからこそ気を付けているのだと思います。きっと周囲のフォローも半端ない!
えーマロンさん、看護師さんだったのですねー(°Д°)いやー適当なのがバレますね。おかしなところがあったらこっそり教えて下さいね(^^)

そうです、ベースはツンな直樹さんが好物なのに、やはり琴子にだけあの眼差しをみせると思うと優しい目線の直樹さんも外せないのです(^^)

きっと琴子は悩みながらも母と看護師両立させていくのだろうなあと思います。

はい、無理せず頑張ります♪
セル版届いたので、更新遅れちゃうかもーーf(^_^)

§ Re.紀子ママ様

コメントありがとうございます♪

はい、なんとか体調は戻ってまいりました♪お気遣いありがとうございます。

そうですよね、病院につれてって薬飲ませても熱が下がらないってすごく不安です。子供って結構熱があっても元気だったりするんですが、このときばかりはあまりに辛そうで、ほんとに替わりたいって思いましたよ。

琴子って実は看護師向いてるよねーと思います。いつだって他人に寄り添って思いやって。技術が伴えば完璧でしょう(^.^)
少しずつ少しずつ、ステップアップしていく琴子を見守る直樹という構図が萌えなのです^-^;
かなり不純な動機で看護師になった琴子だけど、教師はあんなに反対したのに看護師はあっさりOKで、傍にいてほしかったんだろーがと突っ込みたくなります。琴子が100%入江くんを手伝いたいって思いだけじゃなくて、きっちり看護師という仕事と向き合っていく様を見ているのは、嬉しいけどきっとさびしいだろうなと。
ほんとに入江くん自身も琴子のお陰で人間力アップですよね。
高めあっていく素敵な夫婦であってほしいのです(^.^)

川崎病、ご存知でしたか。自分が入院した時よりずっとしんどかったですが、今が元気なのでちょっとした思い出です^-^;っていうか入院初日の長い夜のことしかあまり覚えてないのですが(^^;

心に響いた、なんて、いってもらえて光栄です。生きてきた分の経験値が人に伝えられて少しでも心に残ってもらえたらこんなに嬉しいことはありません。書いてよかったです。
こちらこそ、ありがとうございました!

§ Re.なおちゃん様

コメントありがとうございます♪

そうですね、本当に二人はお互い高めあって成長していくいい関係になれましたね。琴子との出会いがなければ入江くんはこんなに人間的にいい男にはならなかったと思うのです。アンバランスなようでいて実はとても均衡のとれた素敵な夫婦ですよね♪

§

お母さんとして、病気の子供が苦しんでるとおろおろする気持ちわかりますよね、それにしても琴子ちゃん凄く成長してるなて思いますよ看護師として、もうすぐ自分もお母さんになるその成長は目を見張ります入江君も、うれしいだろうねその反面寂しいような複雑な感じ、それでも入江君への気持ちは自身は、あるでしょうがいまだに、愛されてるのに、愛されていないんじゃないかと、自信がない琴子ちゃんその辺が入江君にとってはカワ(・∀・)イイ!!んだろうね。

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