一話で終わらせるつもりだったのを分けたので、ちょっと短いですが……f(^^;





※※※※※※※※※※※※※※※




あの大雪のバレンタインデーから季節が2つ過ぎ、直樹の一人暮らしも半年が経とうとしていた。

琴子も念願のドニーズのバイトに収まり、トラブルを巻き起こしながらもなんとかクビにならずにすんでいる。
そして、直樹と同じように遅いシフトにいれて、ちゃっかりそのまま部屋に泊まりこむ図々しさも健在だ。
本来若い女子は深夜帯にシフトはいれないが、夏休みを前に留学するからと学生が何人か辞めて途端に夜の人手が足りなくなり、入江くんが送ってくれるから大丈夫だよ、と直樹の居るときだけ深夜帯に時折入るようになった。
もう終電がとうに過ぎた時間で、当たり前のように直樹の部屋に泊まっていく。
お陰で夏になってからの方が部屋に来る頻度が増えたようだ。ほぼ週一ペースで寄っている。

そして、相変わらず二人の間にはーー何もない。


ーー暑いから離れろ。

タオルケットを蹴り飛ばして直樹に張りついてくる琴子にそう云ったら、むくっと起き上がって勝手にエアコンの温度を少し下げた。
そして、すぐまた幸せそうに張り付いて爆睡。
無意識なのが恐ろしい。

「入江くんが暑がりじゃなくてよかった~~」

初めて熱帯夜を計測した夜、エアコンの温度を地球に優しい28度に設定していたのをみて、琴子が嬉しそうに云っていた。

「ほら、夏になるとおばさんとおじさん、エアコンの温度で喧嘩してるでしょ。あたしもどっちかっていうと冷えすぎは苦手だし」

体格のいい重樹はやはり暑がりの汗かきらしい。比べて紀子は寒がりの冷え性でエアコンの冷風も苦手だ。夫婦二人の寝室はリモコンの奪い合いで密かなバトルが繰り広げられているのだと聞いたことがあったのだ。

「それでも寝室を別けないのだから、ラブラブなのよねー。いいわよね、おじさんとおばさん。理想の夫婦だわ」


あの親しか知らないので理想といわれてもピンと来ないし、少なくともかなり規格外の親だと思う。(特に母親は)
琴子に全く言葉通り他意はないだろうが、ふと両親揃っている自分がひどく恵まれているのに、それを感謝することも出来ず蔑ろにしているような罪悪感を微かに感じ、結局それ以上何も云わずに琴子に背を向けて眠った。
とりあえずお互い体感温度にさして格差がないということはこの夏で学習した。
エアコンの設定温度で揉めることなく、快適に眠れる筈ーー
ーー琴子がうっすいTシャツやキャミソール一枚の部屋着で、直樹にぴたりと絡み付いてきさえしなければーー

理性と本能とのタイトルマッチは未だ熾烈な闘いを繰り広げていて、夏になってからは理性にとって、かなり不利な状況になっている。
しかし、母の思い通りになってたまるかという一念は、鉄の防壁を作って辛うじて踏みとどまっているのだ。
人間はどこまで性欲や情動に流されず自分を律する事ができるのかという研究論文が書けるかもしれない、と自嘲気味に思う日々である。





そろそろ夏休みも近くなり、キャンバス内がなんとなく浮き足だっている気配が感じられる頃だった。

ーー琴子に男が出来たという噂が流れたのは。

ひとつ年下の法学部の学生だという。
琴子が告白され、かなり積極的に迫られて、あの相原が了承したのだと、あっという間に噂は学内を席巻した。

どうせ、自分の気を引く作戦だろうと直樹にはあっさりと予想がついた。
またも母紀子が、少しも進展しない様子に業を煮やし、余計な入れ知恵をつけたかもしれない。

二人そろって直樹のバイト先に来てデートの相談をする辺り、かなりのわざとらしさだ。

だがそのせいか、その週、琴子は直樹の部屋にぱたりと来なかった。

それぞれに恋人が出来れば簡単に解消できる後腐れない関係ーー

ふと、『ソフレ』を検索した時に出てきた言葉を思い出した。
別に自分たちの関係が『ソフレ』などという意味不明なものだと思っていた訳ではない。端から見ればそうとられても仕方ないのかもしれないが、そんな簡単な言葉で説明は出来ない。

ーー入江くんに彼女が出来たらもう、来ないよーー

そう云っていた琴子。無論、逆もあるということだろう。

だが、勝手にずかずかと他人の領域に侵入し、勝手に来なくなる琴子に、妙な苛立ちを感じていたのもまた事実だった。




ある午後のことだ。4限目が休講になり、直樹が、松本裕子の妹、綾子に大学の図書館で勉強を見ていた時だった。
視線を感じて、窓の外を見ると琴子が少し切ないような表情でこっそりと覗いている。

なんだ。
やっぱり予想通りか。
内心妙な小気味良さを感じつつも隣の綾子に気付かれないようにしていた時ーー

一人だと思っていた琴子が、例の中川とかいう男と何やら深刻そうに会話をしていた。そして唐突に抱きすくめられ、無理矢理キスをされそうにーー


「直樹先生、実はエスパーかと思ったわ。さっきまで隣にいた筈なのに気がついたら窓の外にいるんですもの」

と、これは後々その中川武人と付き合うようになった時に語った松本綾子の弁。


直樹が外に駆けつけた時には、金之助と中川が殴り合いをしていて、横で琴子がただオロオロとしていた。

「 別にいくらおまえらが殴りあってもケンカしても血を流してもいいんだけどさ。でも、琴子の好きなのはオレなんだぜ」

本当、馬鹿らしい。

「ケンカするだけムダじゃない?」

内心の焦りを全く顔に出すことなく平然と云ってのける。

どうやら琴子の唇を死守したらしい金之助がこれ以上殴られるのを庇ったという意識は、本人には一切ない。

どうでもいいが、ほら、見てみろ。
琴子の嬉しそうな顔!

「おい、バイト行くんだろ? 行くぞ」

と一言に云うと、尻尾を振って飼い主の周りを纏わりつく仔犬のように、直樹の後を満面の笑みで付いてきた。
少し陽が傾きかけた街中を琴子と並んで歩き、連れていったのは自分の部屋。
実はバイトまでは少しまだ時間があった。

4限目がある予定の上でシフトを組んでいたので二人とも遅番だった。
まだ2時間くらいあるからそれまで部屋で時間を潰そうということだ。

いつもは夜に、緊急避難先のように、もしくはバイト帰りにそのまま部屋に泊まりに来ていたから、明るいうちから訪れたのは初めてだった。日差しが窓の高い位置から差し込み、ブラインドを通してベッドの上にゼブラの影を落としている光景が、琴子には少し新鮮だったようだ。
でも何だか妙にどぎまぎして、初めて雪の日に泊まったような緊張感が琴子から感じられた。

普通逆だろうが。

思わず直樹は心のなかで突っ込む。

ーーどうせ、『昼下がりの情事』とか思い浮かべてんだろう?

まるで直樹の言葉が届いたかのように、ぶんぶんと首を振り、そして唐突にはっと顔をあげて、
「あたしね、さっき頭の中をずっとあの曲がリフレインしていたの。『喧嘩をやめて~~二人を止めて~~私の為に争わないでぇ~~』♪」
と、歌いだす。

「なんか、ドラマみたいなシチュじゃない? あたしにだってそんなシーンを経験することがあるのよ。捨てたもんじゃないでしょ?」

「あほか」

直樹は冷めた眼で一言そう告げた。

「そんなうわっついたこと云ってるから好きでもないヤツからキスされそうになるんだ」

「………入江くんだって好きでもない子にキスできるでしょ?」

直樹の少し嫌味っぽい言い方に琴子がムッとして返す。

「……好きでもないのに無理矢理キスしたクセに」

謝恩会の日のことを思い出したらしい。

「……なんだ、じゃあ、あのままキスされても良かったんたな、あの中川って奴に。金之助は邪魔したもんだ」

分かっているクセに琴子の問いにきちんと答えを返さずひねくれた言葉を投げ付ける。

「そんなこと言ってないでしょ! あたし、金ちゃんには助けてもらってほっとしてるんだから! 入江くん以外となんて絶対に………」

そう食って掛かろうとした琴子の身体が突然ベッドに押し倒される。

「あいつとは、健全にデートとやらをしたんだろ? 男がみんな草食だの絶食だの思うなよ。世の中には物好きな男が金之助以外にもいたってのは驚きだが、あいつは全うに肉食……いや、雑食みたいだからな。キスの次は速攻ホテルに誘われてたんじゃないか?」

両手首を握りしめられ、直樹に上から押さえつけられる。

嘲笑うかのように頭上で囁く直樹に、ふと、高三の夏休み最後の夜を思い出したがーー。

「い、入江くんは、武人くんとは入江くんの気を引く為に付き合ってたって分かってたんでしょ? だったらあたしがそんなこと受け入れる訳……」

「そんな風に男を利用すると、痛い目合うぞ、っていってんだよ」

「わ、わ、分かってるわよ! 武人くんに申し訳ないからもう会うのやめようって……」

そう半泣きで叫ぶ琴子の胸が、薄いTシャツの上からぎゅっとつかまれた。

「えっえーー? ひゃああ」

思いもかけない事態に、慌てて琴子は身を捩る。

「む、む、胸………」

「あれ? これ胸だった? 肋骨の割りには柔らかいかなとは思ったんだけど」

「や、やだ………」

「やだって、何だよ。期待してんじゃないのかよ?」

笑っていた直樹の瞳がすぅっとすがめられる。ドキッとする。目は全然笑ってない。
思わず顔を背け視線を反らそうとした琴子の顎が突然、直樹の細い指に捕らわれた。

直樹の玲瓏とした美しい顔が、ゆっくりと近付いてくる。

キ……キス……! 2度目………!

思わず目を瞑る。
顔に身体中の血液が集まったように熱くなるのが分かった。
かかる吐息で唇の寸前まで来ていると思ったのにーーー

「……………………?」

いつまでも唇が触れることはなく。

「い……イタ……!」

代わりにちりっとした痛みが首筋に走った。

「な、何したのよーっ」

琴子ががばっと跳ね起きて、首に手をやる。

直樹はさっとベッドから離れクスクスと笑っていた。

何が何だか分からないがまたからかわれたらしい。

「あー赤くなってる~~!」

コンパクトを取り出して首もとを見ると薄く赤紫の痕がついていた。

「な、何? 噛んだの?」

「あほ。噛んだら歯形がつくだろう、普通。おまえキスマークも知らねーのか」

「ええっこれが噂のキスマーク!?」

再び鏡を当ててまじまじと見つめる。

「子供の頃不思議だったのよね。漫画でキスマークつけられてって……男の人、口紅付けてないのになんでキスマーク付くのかしらって」

「おまえ……マジ知らねぇの?」

「え、あ、そりゃ今は鬱血で出来るって知ってるよー。でも、実物見るのは初めて! ちょっとカンドー」

ぽっと顔を赤らめてから、ふと思い付いたように、

「そ、それに入江くんに初めて付けられた……所有の証……ってことよね!! えっやっぱり入江くん、あたしのこと好きなの!?」

「あほ! 何が所有だ! 男に対して余りに無防備だから、からかっただけだ。ほんっと、おまえ高三の夏から心身共に成長しねぇな。あの池に落ちた日におれに抱きついて誓ったクセして、胸はちっともCカップに育ってないし!」

「………そ、そう? これでも毎日牛乳飲んでバストアップ体操して頑張ってるのよ?」

そういって衿ぐりを引っ張って自分の胸を覗きこむ琴子に、直樹はぷいっと顔を背け、「ふざけ過ぎて喉渇いたな。アイスコーヒー入れてよ」と、まるで何事もなかったように素っ気なく云う。

「う、うん!」

どきどきどき。
まだ少し速い鼓動を叩く心臓を押さえながら琴子は立ち上がる。

…………なんだ……結局またからかわれただけかぁ……

な。なんか………思いっきり胸を揉まれた気がしたのだけど……(いや、鷲掴み?)
全然あたしじゃその気にならなかったってことだよね……

心の中で少しため息をつきながら………



その後は特に何事もなかったように、琴子の入れたアイスコーヒーを飲みながら、直樹はPCに向かい、メールのチェックを始めた。
まるで琴子が部屋にいることなど忘れてしまったかのように。

直樹が話し相手になってくれないのを察
すると、琴子もスマホを取りだす。
今どきの女子大生らしく友達や芸能人のブログをチェックしたり、そこから気になったショップやらサイトやらを検索したりすると、あっという間に時間が過ぎてしまう。
たまには勧められた乙女ゲームなぞをやってみたりするけれど、どうもリアルに隣にいる直樹以上に素敵な王子様に出会えたことはない。
先日理美に勧められたのが『ドSな上司と突然同居?ダメOLのシェアハウス』とかいう長ったらしいタイトルで、何だかありがちな設定だった。「なんか、このドS上司の性格入江くんに似てない?」とか云われたけれど、現実の直樹の方が全然カッコイイし、現実の方がずっとエキサイティングな日常で、仮想現実に特にのめり込むことはなかった。




「………夏休みかぁ」

文学部の知り合いが呟いていた彼氏との旅行計画に「いいね」を押して、ついちらりと直樹の方に視線を送る。
夏休みの話題が多くなるこの頃、何処か夏らしいトコに遊びに行きたいなーなどとつい思いを馳せ、直樹と何処かに出掛けるイメージを夢に描いて、あちこちネットサーフィンをしながら妄想を増大させてしまう。
旅行らしい旅行は冬休みの熱海旅行以来していない。真冬だったし、家族旅行だからイマイチときめき度合いは少なかった。今思えばあの頃直樹は将来のことを含め一人暮らしすることを真剣に考えていたのだろうなーと思い当たる。

元々客商売の家で、弾丸で秋田に墓参りに行く以外旅行など殆どしたことがなかった。

ーーカップルで旅行ってどんな感じなのかしら。

考えるだけでわくわくするけれど、デートすらまともにしたことがないので妄想の下地になるものが何もないことに気がついてしまう。

そういえば、あのハワイの旅行券は使う機会があるのかしら?
いつか入江くんとーーなんて、あるわけないか。

ハワイなんて贅沢いわない。
海や山や避暑地に花火に新しい水着に浴衣の新作モデル……
めくるめく、夏のときめきアバンチュール…………

ああ、近所のプールでも、神社の夏祭りでもいいから何処か行きたいなー入江くんと。

うん……でも、いいか。
一緒にこの部屋に居られるだけで。

ダメだなーついつい欲深なことを妄想してしまうわ。

あれこれ巡っていた琴子の妄想が現実的なところに戻ってきた途端に、

「琴子、おかわり」

その存在を忘れている訳ではないようで、当たり前のように琴子にグラスを差し出す。

「はーい」

琴子もいそいそとグラスを受け取ってキッチンに向かう。勝手知ったる様子で手際よくコーヒーを淹れる。料理は全く作らせてもらえないが、コーヒーグッズだけは琴子の自由にさせてくれる。

「いっとくけど」

よく冷えたアイスコーヒーを渡された直樹が、琴子に向かって唐突に言い渡した。

「おれ、夏休み、予定があるから。ドニーズのバイトも夏休みは入らないし、この部屋にも居ない」

「ええっ!!」

寝耳に水、である。

「おまえがあれこれめくるめく夏のトキメキプランを妄想しているようだから、一応伝えておくよ」

「え……? あたし、喋ってた?」

いつものこと過ぎて今更何も云わない。

「………入江くん、夏休み、どっかいっちゃうの?」

忽ち悲しそうな表情に一変した琴子が、直樹を上目遣いで見つめる。
打ち捨てられた子犬のような瞳が、一瞬でうるうると潤んでいる。

「………別なとこにバイト入れただけ。いっとくけど、バラさないからな」

「留学とかじゃないんだね? ほら、夏休みに短期留学する人多いから」

「短期なんて、意味ないから、行くならいつかちゃんと自分のやりたいことが決まって必要だと思えば行くさ。少なくとも今はその時じゃない」

「………そっか。まあ日本ならいいや。……1ヶ月以上会えないの、寂しくて死んじゃうかも、だけど」

「…………須藤さんが紹介してくれたバイトだけどね」

暗に須藤に訊けといっているようなものなのだが。

「須藤さん? ええーじゃあ今度訊いちゃおっ」

泣き出しそうだった顔がもうぱっと溢れんばかりの笑顔に変わる。

「………来るなよ」

直樹の釘を刺すような一言に、

「さあ……どうかなーー?」

ふっふっふっーと不敵に笑う琴子。
もうこの笑みだけで、探り出したらきっと追い掛けてくる気は満々だ。

それに気づいてるのかいないのか、直樹は再びPCに向かい始める。



ワンルームの1つの空間に、それぞれ自分の時間を過ごしながら、でもお互いの気配を常に感じてる。

なんか、いいなー。

入江家ではなかった時間だわ。

琴子は時折直樹を盗み見ながらその午後の昼下がりを楽しんでいた。

何も用事があるわけでもなくこの部屋に来て、こんな風にまったり過ごして何だか本当に彼女みたいじゃない?
まあちょっとしたドキドキも時にはあったりしてーー

ーーソフレでもなんでもいいや。

一線を越えそうで越えない関係というのは、始まらないかわりに終わりもない。
もしも直樹と恋人関係になったら、その日からいつ別れを告げられるかビクビクして過ごすような予感がする。

ーーこうして入江くんの近くに居ることを許されるのなら。



呑気にそんなことを考えている琴子に反して。

ーーバイトまでの時間、あと1時間くらいだが。

今ならーー紀子には此処にいることは知られていない、今ならーー。

先程琴子を押し倒した時に、身体の最奥で感じた昂るような熱が、未だ燻っている。
Cカップには程遠いが軽く触れた胸は、その柔らかさに奇妙な感動を覚えた。

胸は大きさじゃないんだよーー女たらしの理学部の先輩が、自慢げに己の持論を繰り広げていたのを思い出す。
信用ならない男だったが、今なら納得してしまうかもしれない。

思わずまだ感触の残っている手のひらをじっと見てしまう。

そしてーーもう1度触れたいとーー。

キスもーー。
辛うじて唇に触れるのを避けたが、あの状態で唇を塞いでしまったら確実にそれ以上の行為に発展しただろう。首筋に方向を無理矢理変えたが、吸い付いた肌は危険なくらいしっとりして甘かった。


全く、何がキスマーク初めて!ーーだ。

こいつ、雪の夜にあんなにドキドキ期待してたクセして、絶対現実に男がどんなことするか、わかってねーだろ。

1コマ目、キス。
2コマ目、上半身裸で抱き合って。
3コマ目、朝、女は男の腕に抱かれて、顔を赤らめて目が覚めるーー

琴子がうっとりと読んでいた少女漫画をちらりと覗き見たのを思い出す。
点描やら薔薇やらに埋め尽くされた幸せな情景。
おそらく琴子がイメージしているセックスはそんなもんだろう。
すっ飛ばされた2コマ目と3コマ目の間にどんな生々しい手順が踏まれるのか果たして分かっているのか。


いっそ、あのまま押し倒して、男が一体どんなものなのか、思い知らせてやればーー


いや、まて。
落ち着け、おれ。
此処でやったら多分、バイトで使いもんにならねーだろ、こいつ。
1度箍が外れたら抑えが全く効かなくなる予測はつく。

一応現実的なことを考えて、ストッパーをひとつ。

夜、遅番だから当然部屋に泊まってくよな……友達んちに泊まると連絡させて……
ラインで連絡させれば琴子の上擦った声を聞かせることもないから大丈夫だよな、うん。

いや、だから待てって。
おれは何の段取りを考えているんだ。
こいつをどうするつもりだっ?

今日バレなくても、明日こいつが帰って挙動不審ならすぐバレるぞ。おふくろの勘も動物並じゃねーか。

落ち着け、おれーー。

悶々とする直樹。

のほほんとしている琴子。

ゆっくりと夏の遅い夕暮れが、オレンジ色の光で室内を染めていく。


二人のソフレな関係は果たしていつまで続くのかーー?




とりあえず、夏休みーー清里で……何かが起きる………かもしれないーー







※※※※※※※※※※


続くのか続かないのかf(^_^)

ちょっと書いてみたかったのです。
修行僧のように野獣封印している直樹さんを!ちょっとしたザマーミロ企画(M様命名)でした(^_^;
この後、原作では清里エピ。キスをきっかけにキスフレになるとか。そしたらキスフレの後はセフレか?(それはそれでかなりな問題作)何にしろ「待て」をされてる期間が長い分、タガが外れたらケダモノ間違いないですね、この直樹さん……f(^^;

まだまだ今のところは自分の感情が何物か分かっていない無自覚野郎なので、関係が進んでも多分琴子ちゃんは不安なままでしょうね……(結婚したって常に妻を不安に陥れている馬鹿な夫なので^_^;)

帰着点が決まってないので続き(キスフレ編)を書くかわかりません……あしからず~~(^_^;)



とりあえず次は未完のものたちを片付けようと思ってますf(^_^)
何故かリクエストの多いキミゴゴを……と思っていたのだけれど、多分先に『夏休み』再開しようかと(諸事情により……)
キミゴゴ……教生シーズンの6月くらいまでには~~~(お待ちくださってる皆様、スミマセン~~)




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2016.02.24 / Top↑


また変な話を思いつきで書いてしまいました……f(^^;
バレンタインの前に書き始めていたのに、ちょっくら流行りにのってインフルなんぞでダウンしてまして、更新遅くなっちゃいました。(あ、もう大丈夫ですので!)



『ソフレ』(←知ってます?)という最近の言葉を使っているので現代の設定。なんとなく日キスドラマと原作を混ぜ合わせた感じです。
でも……原作とは少し違う設定です。








※※※※※※※※※※※※※※※







「おまえまた来たのかよ。こんな時間に………」

部屋の扉の前で所在無げにぼーっと立っていた琴子を見つけると、直樹は軽くため息をついた。

遅番のシフトのバイト帰り。もう0時を回っていた。

直樹の姿を見て、ぱっと顔を輝かせた琴子は、てへっと舌を出して、はにかんだように笑う。

「だって、終電乗り遅れちゃって」

「こんな時間まで何やってんだよ? 」

眉間に皺を寄せて直樹が呆れたように問う。
この辺りは街灯も多いしコンビニも近い。それほど危険な場所ではないが、いくら琴子とはいえ年若い娘がうろうろするべきではない時間だ。

「理美と一緒にじんこの知り合いのライブイベントに付き合って、それからファミレスでしゃべってたら、ついうっかり」

「石川んちへ泊まればいいだろうが?」

「まだ電車大丈夫と思って、家へ帰るつもりで、二人と別れちゃったの。ほら二人はバスの方が近かったし。でもなんやかんやあって終電逃しちゃって」

「なんやかんや?」

「酔っぱらいに絡まれたり、変な客引きに連れてかれそうになったり」

「おまえ一体どんな界隈歩いてんだ! 」

眉間の皺がさらに深くなり、直樹が苛立ったように怒鳴り付ける。

「あまり使わない駅だったから、つい迷っちゃって」

「おまえは夜の街の危険認識が甘すぎる!」

もう初夏の季節であった。
夜は薄いカーディガンなど羽織っているものの、肌の露出は多くなっている。
ましてや琴子はホットパンツやミニスカートなど、平然とそのほっそりとしたしなやかな足を見せつけて歩いているのだ。

「一応、家に電話しておばさんにお迎え頼んだの。でも、駅名云ったら、入江くんちに近いって」

「『お兄ちゃんとこ泊まってらっしゃい』ってことか」

聞いてみれば確かに一駅分の距離だが。
夜、女独りで歩かせようという方が危ないだろうと、非常識な母に心の内で毒づく。

「うん、そうなの。電話して入江くんに迎えに来てもらって、って云われたけど……まだバイト中だろうなーって…… ごめんね、いつもいつも。タクシーで帰ろうかなーとも思ったけど」

「どーせ財布にたいして金が入ってなかってんだろ?」

「ピンポーン!」

あ、タクシーは捕まえたのよ、ここまでの道順訊くために、と自慢げに笑う琴子にどっと脱力し、直樹は鍵を取り出して扉を開ける。
メゾン・ド・ジョイコブ302号室。
直樹一人だけの城だ。
初めて得ることが出来た、他人には決して侵されることのない自分だけの王国。
少なくとも琴子との同居が始まり、弟と部屋を共有するようになってからはプライバシーといえるものは殆どなかった。
別に裕樹との相部屋が苦痛な訳ではなかったが、それでもやはり一人でゆっくりと思考に耽る時間と場所が欲しかった。
親の脛をかじりながら、親の仕事を継ぐのがイヤだとごねるのも愚かしいことだと分かっていたからーーある程度自立した環境で将来についてじっくりと考えたかった。
その為に得た部屋だ。
誰にも、親にすら立ち入らせない不可侵の聖域。

ーー4か月前、バレンタインディの大雪の夜に琴子を泊める前までは。

まさか、たった一ヶ月しか完全なる孤高の日々を保てなかったとは。

直樹のバイト先で胃痛で倒れ、誰も招いたことのない部屋に初めて琴子を連れてきた。
紀子の思惑もあって、結局そのまま泊める羽目になった。

そして同じベッドに眠ることになりーー
琴子に蹴りあげられたり乗っかられたりしながらも、時折掛かる甘い吐息に妙な感覚を呼び起こされる戸惑いに耐えて、まんじりとしない夜を過ごしたのだ。眠れたのは朝方になってようやくだった。

母の思い通りになってやるものかという意地が、ともすれば揺るぎそうになる理性を叱咤したのだ。

そして夜が明け、何事もなくいつもの日常は過ぎていく筈だった。

母がいつも通りSNSに二人が一夜を過ごしたことを自作の予想絵図とともに大袈裟にアップした。それは想定内の出来事だったのだが。
もっとも、母のそうした行為は、琴子との同居が始まって、勉強を教えながらうたた寝してしまったショットをSNSにアップされて以来、ほぼ日常的にあることなので、周りもあまり本気にしていない。
顔だけは世間に晒すなときつく言いおいてあるので(一度ネットに写真を載せた為に芸能事務所や出版社からの問い合わせがあまりにもひどかった)ハートマークで顔は隠すようにはしているが、分かる人には分かるという感じだ。

二人の間に何かあるのか、いやそりゃ一緒に暮らしてりゃなんかあるのが普通だろう、いや、今までの写真はあの変わり者のおふくろさんの妄想劇場らしいぜ、あの写真、全部CG加工だろ? などと好奇な噂は絶えないが、真実は誰も知らない。

その時も、母のラクガキ付きの呟きだけで、特に証拠写真があるわけでもないから、一瞬ネットや大学のキャンパスはざわめいたがすぐに沈静化した。

それで終わる筈だった。

いや、イヤな予感はしたのだ。
琴子に部屋の場所を知られてしまった。
夜、しかも雪の日で、方向音痴の琴子が道を覚えていられる筈などないだろうと高を括っていたのだがーー
こと直樹に関しては驚異的動物的直感能力を発揮するのが琴子なのだ。

2度目に琴子が直樹の部屋を訪れたのは、また寒い夜だった。バレンタインから2週間後。
後期試験が終わり、皆で打ち上げに飲み会をした帰り、電車が事故で止まってしまった。タクシーも代替バスも長蛇の列で、紀子に電話をしたら『ワイン飲んじゃったから、お兄ちゃんのところに泊まってね』と云われたのだという。

「ご、ごめんね~~」
といいつつ、直樹の部屋を突然訪ねてきた琴子。
結局、再び泊める羽目になった。
そしてまだ肌寒い季節だったのでやはり同じベッドで眠った。

ーー2度目の夜も、当然何もなかったのだが。
母から電話で「琴子ちゃんをよろしくね。そして、頑張ってね」と妙なエールを送られては、どうこうする気も殺がれるというものだ。

けれどここで、きっちり断らなかったことが仇をなしたのか、あるいはすっかり味をしめたのか、それから度々琴子は部屋を訪れるようになった。
うっとおしい程の頻度ではないが、月に1、2回は襲来しているのではないだろうか。

いわく、「おばさんにおかず作り過ぎちゃったから持っていってって頼まれたの……」

いわく、「そろそろ衣替えした方がいいんじゃない?って着替えを渡されて……」

いわく、「英語のレポート、教えてほしくって」

ーーと、段々図々しさが増してくるのは否めない。

追い払えばいいものの、別に部屋にいても害はないし、少し禁断症状が出ていた琴子の珈琲が飲めるのなら、ま、いいか、となし崩しに部屋に来ることを容認してしまっていた。

そして。いつの間にか部屋の中には琴子の物が、じわじわと増えてきている。

洗面所には100均で揃えた歯ブラシとプラスチックコップ。
コンビニで買ったトラベル基礎化粧品セット。
キッチンには、いったいいつ持ってきたのか、ペアのマグカップまで置いてある。
クローゼットの端に紙袋に入れられた着替えまでもが常備されている。
完全に半同棲の様相だった。


「お先に~~」
勝手知ったる顔で、シャワーを浴びて、直樹のドライヤーを借りて髪を乾かす。

「 髪の毛落とすなよ」

「わかってるよー」

直樹はデスクに座りノートパソコンを開いて何やらキーボードを叩いていた。
琴子はうっとりしながら、ピアノを弾くような流麗なブラインドタッチで操作するその長い指を見つめる。


「これから、遅くなったら電話しろ。なんかあったらおふくろに殺される。おじさんに申し訳がたたない」

「ええーっ電話したら入江くん、迎えに来てくれるの?」

「おまえは無防備過ぎ。一応女なんだから」

「へへっ女と認めてくれてるんだー」

「あくまで『一応』だ!」

少し嬉しそうに琴子はスマホを取り出す。

「じゃ、じゃあ入江くんの携帯の番号教えてくれるってことだよね。あ、ラインとかする?」

「しねーよ」

そういいながら直樹も自分の携帯を取り出す。今どき珍しいガラケーである。
けれど、それまで断固として携帯を持とうとしなかった直樹が、持つ気になったことが奇跡に等しいことなのである。

しかも番号教えてくれるなんて~~

一緒に寝泊まりしている関係なのに、たかだか番号ゲットに瞳をぱっと輝かせる。

「ガラケーでもラインできるみたいよ。家族みんなでグループ作ってるよー。裕樹くんも入ってるよー。やろーよ」

「なくても生きていける」

「 でもさ。おばさんから入江くんが携帯契約したらしいって聞いた時は冗談かと思ったわー。どんなにみんなが説得しても持ってくれなかったものね。あ、もしかして、登録、あたしが女子1号?」

「松本には聞かれたけどな」

「ちぇー」

でもまだ教えていないけれど。
それは云わない。
ショップにいったのは四日前。まだ二十歳まで数ヵ月あるから親の同意書がなければ携帯の新規契約は出来ない。だから重樹に頼んだのだ。購入してすぐに登録したのは実家の番号と家族の番号ーーそして、記憶していた琴子の番号。

「でも、どうして突然持つ気になったの? 不自由ないから絶対要らないって云ってたじゃない」

子供の頃は誘拐防止の為に持たせていたけれど、中学くらいから持ってくれなくなっちゃって。
家に置いて行くから携帯の意味がないのよ。
紀子もそう嘆いていた。

24時間束縛されているかのようだ、とよく云っていたと。

「バイトのシフトがメールで来るからな。PCメールで確認してたが返事がすぐ出来なくて思うようにシフトに入れない」

「そうなんだ。まあ、今や休講の案内もメールだし、就活とかになるともっと必要らしいもんね」

妙に納得している琴子だが、実際は嘘である。バイトのシフトはPCメールでやり取りしているものの、たいてい店で決めているし、店長に直接云えばかなり融通がきいてもらえた。

PCかタブレットさえ持っていればメールでのレポート提出も問題なかったし、休講の連絡も、ゼミの緊急連絡も自分だけラインのグループに入っていなかったものの、誰かが必ずPCのメールに送ってくれていたので特に不自由はなかった。
高校時代も連絡網はメールだったが、渡辺が必ず家に電話をくれていた。

学生の一人暮らしで今どき珍しく固定電話を契約しているが、それすらも滅多に鳴ることはないのだ。必要は全くないと思っていた。

だがそれはそれまで現実に緊急事態が起きたことがなかったからだ。
ーー先日、裕樹が腸閉塞で入院した。
家族全員九州に出掛けていて、たった一人で琴子が、突然自宅で腹痛に苦しむ裕樹の対応をした。
不安そうに電話をかけてきた琴子の、悲壮な震える声がいまだに耳に残っている。
たまたまバイト中で店にいたからよかったものの、出先だったら、と思うとゾッとした。

病院に駆けつけた時、必死で不安と戦っていた緊張が解けて、自分にしがみついて泣いていた琴子をいつのまにか抱き締めていた。
それはただ単に弟を救ってくれた感謝の想いだけかもしれないけれどーー。

結局はあの夜も、一人で誰もいない家に帰すのが忍びなくて琴子を部屋に泊めてしまった。
そして、なかなか寝付けないようだった琴子についうっかり、腕枕まで貸してしまった。

いやーー実際危なかったのだ。あの夜は。
魔が差すーーという瞬間を確かに感じ、だがなんとか理性を総動員して、妙に熱く滾るものが冷めてくるまで何とか乗り越えた。
それまで何とか拮抗を保っていたものが少し沸点を越えたら簡単に溢れ出してしまいそうな危険な予感は常に感じてはいる。

しかし、なんで琴子なんかにでも欲情できるのかーー。
男の身体のなんと面倒くさいものだと、何度か琴子を泊めてみて思い知ったが、これもひとつの試練なのだろうと、この状況を妙に達観して見ている自分もいるのだ。




レポートの作成を終えてから、シャワーを浴び、部屋に戻る。
琴子はさっさと先にベッドに入り、左端に寄って雑誌を見ながら寝転んでいた。
既に床に寝転んでも寒くはない季節であるが、当たり前のように直樹のスペースを空けて、ベッドの中にいる。
琴子がこの部屋に訪れ始めた頃は寒かったので、布団を温めてくれているのは正直ありがたかったが、段々暑くなったらどうなのだろう? とふと思う。
暑いから床で寝ろ、と云ったらしぶしぶ出ていくだろうが。

でも、夫婦は普通、暑かろうが寒かろうが一緒に寝てるんだろうな。いや、例外はあるだろうが。

きっと、自分は例外だと思っていた。
誰かと同じベッドで眠るなんて、以前は考えてもみなかった。
例え誰かと結婚し、夫婦の寝室を持ち、そういう行為をした後でも、じゃあ、おやすみとそれぞれのシングルベッドに戻る方がいいと思っていた。

ーー特にこんな寝相の悪い女が一緒にならーー


なのに、狭っ苦しいシングルベッドに、そういう行為もなしに二人張りついて同衾しているこの事態は一体何なんだろうーーと唐突に自分のことが理解不能に思ったりもする。

「ねぇ、入江くん」

琴子が雑誌を枕元に置いて、直樹の方を見た。

「ソフレって知ってる?」

「ソフレ? セフレなら聞いたことあるけどな」

「うん、まあセフレに引っ掻けただけの最近の造語みたいだけど。ふふ、入江くんでも知らないことあるんだね」

「ネットで多用される独特の言葉はさすがに知らないな。新聞なんかに乗れば記憶するが」

一人暮らしだが新聞は2部取っている。ネットニュースは殆ど見ない。インターネットはメールでのやり取りや、論文などの検索や本の購入などに便利だが、信用出来ない部分も多く、利用はするが決して依存はしない。
流行り廃りのネット用語や若者用語も、耳にすれば記憶するが、テレビやネット動画を殆ど見ない生活をしているので、全ての情報を取得している訳ではない。

「理美とじんこがね、あたしたちの関係、ソフレなの?って」

「だから、ソフレって何?」

「『添い寝フレンド』ってことみたい。全く男女の関係にはならずに、一晩ただ一緒に寝るだけの異性同士の友達関係。最近、すごく増えてるんだって。そういう関係」

「おまっ……石川たちにここに泊まってること話してるのかよ」

「うん。て、いうかみんな知ってるじゃん。おばさん、あたしが此処に泊まる度に、あら琴子ちゃん、今日もお兄ちゃんとこにお泊まりかしらって呟いてるもの」

この間なんて「いつ赤ちゃん出来てもオッケーよー」なんて、呟きとともに、直樹と琴子の顔を合成して赤ちゃんの写真を作ってアップしていた。勿論女の子である。当然直樹にはそんなこと言えないが。

「ちゃんとおばさんにもお父さんにも何にもないから!って説明してるのよ?毎回! 入江くんはそれはもう、紳士だから!って」

「………………」

「あーわかってる、わかってる。あたしに興味ないだけだよね、えへへ」

自虐的に笑う琴子に少し眉を潜める。

時折「おまえ、マジで相原と付き合ってんの?」と訊かれ、「まさか」と笑って否定している。
一体どれだけの人間が母の戯れ言を信じているのか分からないがーー。

「で、あたしたちってソフレなの?」

琴子が真面目に訊ねてくる。

思わず直樹は布団に入るのをやめて、PCを開き、その『ソフレ』とやらを検索する。

調べながらも琴子にはっきりと告げる。

「 まず『フレンド』ってくくりがおれたちに当てはまるのか?」

「えー……そ、そう?」

「おれたちって、友だちか?」

「えーと……」

そういわれると確かに悩む。
直樹の位置は、理美やじんこ、金之助とは明らかに違う。

「……ただの同級生?」

恐る恐る訊ねる琴子に密かに吹き出す。

少なくとも、かつてのA組の女たちとは遥かに近い位置にいる。かといって松本裕子とも違う場所だ。
松本とこうやってひとつベッドで添い寝をすることなど想像もつかない。
趣味嗜好からいっても恋人にするならベストな相性のような気もするが、彼女とキスやセックスをすることなど考える余地もない。

けれど、琴子とはーー

「あ、ただの同居人かーー今は違うから、元同居人?」

そうかーそういえば、友だちじゃないよねぇ、あたしたち。
………だって、カテゴリーの中では『苦手』な種類の女だもんね、あたしって。

と、妙に一人で納得している。

苦手だけど嫌いじゃないーー去年の夏の思いもかけず二人でデートした時に云われたセリフは宝物のように胸に刻んである。
ザマーミロなキスより嬉しかったから。
そう言ってもらえて良いように解釈したものの、結局自分は直樹にとってどういう存在か不明なままである。

ーー同じ家にいてもイヤじゃないよ。

あの時と同じ感覚でこうして傍にいることを容認して貰えるだけかもしれないけれど。

「えーと、じゃあなんだ?『添い寝ルームメイト』?」

一人でぶつぶつと言いながら自分たちの関係性に最も相応しい単語を探しているようだ。



『ソフレ』ーー恋愛関係のない男女が一緒に添い寝をすること。

なるほど、最近の若者はそういう関係が実際に多いらしい。

検索をかけると多数の記事にヒットした。

ーー現代の若者の新しい恋愛観
ーー友達以上恋人未満の関係

『隣に異性が寝ててなんにもしないなんて、あり得ない!』

30代以上には全く理解不能だというコメントが多いが、20代の若者はそういう関係を積極的に求めてるものが多いのだという。『ソフレ募集』などとSNSに書き込む者もいるらしい。
セックスはしたくないけれど、独り寝の寂しさは埋めたいーーと。


実際に恋愛に消極的な草食系男子が多いのも事実だろうし、恋愛関係自体を面倒に思う若者が多いのもまた事実なのだろう。

恋愛が面倒。

まあ、確かに。そこは否定はしないが。

とはいえ、そこに書かれていることが自分たちに当てはまるとは全く思えない。

昔なら硬派といってたものが、今は草食という妙に柔らかい言葉の方が一般的になっている。
たが、やはり硬派と草食系とは意味合いは全然違う。

「………入江くんって絶食系……?」

ぼそっと琴子が呟く。

「は?」

また新たな単語が出てきた。

「今はね、恋愛に積極的になれない草食系男子よりも、さらにパワーアップして、全く恋愛に興味の欠片もなく、性欲もない男の子のことを絶食系男子って言うんだって」

「おまえに欲情しないから絶食男子ってか?」

少しむっとしたような直樹に、琴子が慌てて答える。

「えーと、まあ……だって、理美やじんこがね、男なんて、顔や性格なんてどーでもよくって、そこに……があればヤりたがるものなんだって。据え膳食わないのは不能かホモか絶食男子だって」

「おまえの友だちは……全く……」

「でも、実際はその絶食系男子が多くなって、恋愛面倒、結婚面倒、時間やお金のムダ……みたいに思う人が多いのよね。女の人も恋愛より自分の時間の方が大切……とかさ。あたしには考えられないなー」

「おまえは恋愛のことしか頭にないからな」

「……恋愛というより、入江くんのことしか頭にないだけだよ。ちょっと前に流行った脳内メーカーなら、頭の中は全部『直樹』『直樹』『直樹』で埋め尽くされているわね。入江くんの頭の中はどうかなー。今でもそんなアプリたくさんあるのよ。やってみる? 名前いれるだけで……」

「いい! 名前でそんなのわかるか!」

何年も前にそんな遊びが流行ったのは知っていたが、全くなんの根拠もない法則に基づいて作られたお遊びアプリがまだ存在していたのかと呆れてしまう。

「入江くんは『本』『本』『本』ばっかかなーいや、これで『H』『H』だったら笑………あ……」

「なんだよ」

スマホを見つめ、顔を赤くして止まっている琴子を怪訝そうに眺めてから、さっとスマホを奪う。

「何? これ」

「えーと、入江直樹の脳内?」

「くっだらねぇ遊びすんなっ!」

「いやーん、スマホ捨てないでぇ~~」

琴子がベッドの端に放り投げられたスマホを拾うとそこには、びっしり『H』『H』で埋め尽くされて、端に申し訳程度に『 友』とある脳内の絵図がーー。






「………やっぱ当てにはならないわねーこんなの」

えへへと笑う琴子の頭を軽く小突く。

「2度とこんな下らないことに俺んちの電力使うな」

ちゃっかり自分のスマホの充電器を差し込んでいるコンセントを指差して、直樹が睨みつけた。

「はーい」

まさか妙な気まずさからスマホに八つ当たりをしたとは、琴子はまるで思っていない。
男の頭の中が現実にどんな風になっているのか、恋愛どころか頭の中が一面お花畑な琴子には想像もつかないだろう。

隣に眠る度にその唇に触れそうになり、そのパジャマの下を夢想し、ひとつひとつボタンを外していく様を………
この部屋に来る回数以上に何度も頭の中で、どんな風にされているかを……

「でもさ。ソフレとかキスフレとか、草食だの絶食だの、恋愛に臆病な男の子ってそんなに多いのね。それが晩婚化や少子化にも繋がってるってことなのかなー。やっぱ、男は狼なのよ~♪ っていうのはもう昭和の話なのね」

いや、平成にも狼はいっぱいいるから自重しろ!

「うん、まあ絶食系でもソフレでもなんでもいいのよ。こうして一緒に眠れて入江くんの寝顔みれるの、あたし的には幸せだし。ちょっとした役得? 入江くんが肉食でがっついてるのってあまり想像できないものね」

ふふっと笑いながら琴子は布団の中に潜り込んだ。

「スティックな所がまたいいのよね~~」

「スティック……? …………もしかしてストイックとでもいいたいのか?」

「ああ、そうそう、それよ!」

「………………」

紳士だの。
禁欲主義者(ストイック)だの。
おまえの中のおれのイメージは一体何なんだ!?

泊まりも、2、3度目までは、かなり緊張していたようだった。もしかしたら、一線を越えるかも、という期待と不安が琴子には常にあったように思う。奇妙な緊張感が隣からひしひしと伝わってきた。

けれど4回目を過ぎた頃には、もうすっかり諦めたのかひどくリラックスして隣で眠るようになった。
まるで母の隣で眠るような安心感でもあったのか、一度寝言で「お母さん……」と呟かれて巻き付かれた。
それはそれでどうかと、思わず襲ってやろうかという気が起きなかった訳ではない。

琴子にも最初に云っておいた筈だが、全ては紀子の思うつぼになってたまるか、というその一念に過ぎない。
琴子は嘘が付けない。
関係をもった途端、紀子にはバレるだろう。
そしてその翌日には間違いなく婚姻届だ。
ゾッとする。
自分の意思のないところで全てが進んでしまうことに。

では、もし紀子に知られなかったら、何の躊躇もなく琴子を抱くのだろうかーー?

「………入江くんに、もし彼女が出来たらもう、ここには来ないよ。そういう風にあっさり解消できるのがソフレなんだって。後腐れない関係ってヤツ? でもその後もちゃんと友だち関係は継続出来てさ」

ぽつりと寂しそうに琴子が囁いた。

「おい、おれたちを勝手にその『ソフレ』とやらに定義づけるな!」

直樹はパソコンをシャットダウンしてから閉じて、琴子の方を振り返る。

返事はない。

「………琴子?」

すーーーー

すぐに規則正しい寝息が聞こえた。

「……おまえ」

大きくため息をついてから、直樹の為に開けられたスペースに潜り込む。

「………入江くん……」

ごろりと寝返りを打って、直樹にしなだれかかる。
ドキッとする。
相変わらずの寝付きの良さ。
さっきまでペラペラペラペラ独りで勝手に喋り倒していたクセに、数秒で唐突に落ちる。初めは呆気に取られたが、もう慣れた。
そして、甘い声でのいつもの寝言。
とりあえず「お母さん」より「入江くん」の回数の方が多いのが少しは勝った気に………

待て。
勝つ? 何に? 亡き母親にかよ?

ーーと、つい自分で突っ込んでしまう。

自分を好きだという女が隣で寝ていて全く手を出さないのは、絶食系だから?

冗談じゃない。
ただ完璧なまでの鉄の理性の持ち主なのだと理解しろ!

甘い吐息を首もとに吹き掛けられ、ないと言いつつも男よりは確実に膨らんだ胸を押し付けられ、無意識に腕にしがみつかれーー確実に身体の一部は本人の意思とは無関係に熱くなるのだ。自分は正常な男なのだろうと思う瞬間だ。

紀子から渡された着替えのなかには大量のコンドームが仕込まれていた。そういう行為をいちいち腹立たしく思いだし、ぐっと理性を総動員して琴子にのしかかりたくなる本能を制御しているのだ。誰か誉めてくれ、といいたい。

コンドームなぞ、最初に琴子を泊めたあの大雪の夜、コンビニへ食料を買いに行った時に既に購入してある。1種の御守りのようなものだ。
絶対使ってはならない! 自分にそう言い聞かせる為の。


もう、来るなーーそういえば簡単にこの苦行から逃れられるのかもしれない。
何故だか、そういった瞬間の琴子の悲しそうな顔、そして、きっとあっさり「うん、わかった」といって2度とここに来なくなるだろうことも予想がついてしまう。

なのに言えないのはーー何故だろう?

自分の身を厳しく律することをストイックというのなら、確かにストイックなのだろう。
とにかくこのまま流れに身を任せてなるものかと必死で自制心を保ち日々己の煩悩と闘っているのだから。

そして、今夜も悶々と眠れない夜を過ごすのだ。

もんもんもんもん…………

「いてっ」

琴子に顔面パンチを食らいながらーー









※※※※※※※※※※※※※

野獣封印(笑)



雪のバレンタインの夜に直樹の部屋の所在地を知った琴子ちゃん、原作では一年後のバレンタインにマフラー届けにいくまで一度も訪れてないようですが(よく辿り着いたな~方向音痴で)せっかく部屋の場所を突き止めたのにいつものストーカーパワーで部屋に押し掛けたりはしなかったのね、と不思議に思いまして。(うん、まあ基本入江くんの嫌がることはしないもんね)
もし琴子がしょっちゅう部屋に押し掛けてたらどうだったのかしらという妄想をから始まりました……f(^^;




どうでもいいけど懐かしの脳内メーカー、作中のものは『ののの』で入力したら出たものでした~~(えーと^_^;……)

入江直樹は『金』『金』『金』、真ん中に『迷』……何だよ、それ?と使えなかったのですが、相原琴子は意外と合っていたかも……よかったら試してみてください(^_^;↓

http://seibun.nosv.org/nou/


こんな感じで淡々と後編に続きます。一話で収めるつもりが長くなってしまったので分けましたが………そんなにおおっという展開はないので期待しないで下さいませf(^^;とりあえず書きかけてはいるので……そのうちにアップするかと。





2016.02.20 / Top↑



スミマセン、入江くんがヘンですf(^^;

いや、ヘンタイです。

このイベントの度に入江くんをおかしな人にさせてる気が………f(^^;

どんな入江くんでも大丈夫よ! という、琴子ちゃん並みに広い心の方、続きからどうぞ♪




※※※※※※※※※※※※※※


いよいよこの季節がやって来た。
家の中がやたらチョコレート臭漂うこの季節が。
玄関の扉を開く度にふんわりと甘い薫りがするのは気のせいではないだろう。
思わず眉間の皺が深くなる。

「もう100年はチョコレートは要らない」と宣言したのは一昨年、チョコレート風呂なぞについ入ってしまったせいだ。
二人してチョコレートにまみれて、訳のわからないテンションでチョコレートコーティングの琴子を食し、それなりに盛り上がったが、チョコレートは一生食わなくて十分と思ったし、その上掃除が大変だったのに結局風呂は壊れて買い替える羽目になった。
(ついでにタイルも張り替えて浴暖機能やミスト機能も付け足し、浴槽も広々タイプに変え、浴室の総リフォームを行ったのは紀子のちょっとした気配り……らしい)

因みに去年は琴子が看護科編入試験の真最中で、バレンタインどころではなかったが、一応家族には購入したチョコを配っていたようだった。
直樹には、「試験合格したら何か手作りするね」と言っていたが多分自分がご褒美デートをしてもらうプランで頭がいっぱいで、すっかり忘れていたようだ。
忘れてくれていた方がありがたかったので敢えてその件は追及しなかったが、何も貰っていないことはしっかり覚えている直樹である。





「入江くーん、赤か黒かどっちがいい?」

直樹は1週間前の出来事をふっと思い出した。

夜、夫婦の寝室に入った時にいきなり琴子からそう問われた直樹だが、さすがに脈絡のなさすぎる質問に怪訝な表情を露骨に見せた。

いや、一瞬、頭を過ったものがあったのだが、琴子が差し出したものは予想したものではなかった。

「なんだ? そりゃ」

段ボール箱の中に大量の赤と黒のパッケージの某菓子メーカーの板チョコが入っていた。

「なんでもじんこの知り合いが大学生協の購買担当で、注文ミスで大量発注しちゃったらしくて。みんなで少しずつ買ってあげたの。ほら、市販の板チョコでもちゃんとチョコスイーツ作れるからさ」

いつもは紀子御用達の製菓用の高級チョコレートを使用していた筈である。

「チョコ、要らないっていったろ? どっちだろうとどーでもいい」

「ええっ? 入江くんは黒だと。ほら、黒はビターだし」

赤いパッケージはミルクチョコレートらしい。
一番定番のノーマルチョコは茶色のパッケージの筈だがそれはないようだ。





赤か黒かーー

ビターだろうがミルクだろうが、甘ったるいのにたいして違いはないのだ。はっきりいってどっちでもいい。

赤か黒かーー気になるのは。

直樹がそう問われて連想したのは、琴子の白い猫足チェストの引き出しに収められているハズのアレだ。

去年の琴子の誕生日にじんこと理美によってプレゼントされていたアレーー。

二十歳の誕生日以来、二人の親友は毎年のように琴子にお色気下着をプレゼントしていた。いわゆるベビードールとかいう奴だ。
持つべきものは友達だな、とそのプレゼントに関しては密かに二人に感謝している直樹である。毎年なかなかいいチョイスで、割と楽しみだったりするのは無論内緒の話だが。(さすがムッツリ)

恥ずかしがって自分から着ることはないが、琴子の誕生日の1ヶ月後の直樹の誕生日には、プレゼントと称してその下着を付けることをさりげなく要求するのである。
誕生日のお願いには逆らえないようで、真っ赤になりながらもその透け透けだったり、布面積が異様に少ないものだったりする、かなり恥ずかしい下着を身に付けてくれる従順な妻なのだ。

いつもは琴子のイメージに合う白やピンクのパステル調のものや、レースや花柄ものだったりするが、今年はチラリと見ただけだが、中々インパクトのある、赤と黒の色ちがいのデザイン二枚組だった。
しかもかなりどきりとする刺激的な意匠である。

早くそれを身につけた琴子を見たいーーそして食べたいーーと密かに渇望していたが、誕生日から4ヶ月以上たった今もお目見えしていない。

仕方ない。
自業自得なのだ。
全面的に自分が悪い。
それはよーく分かっている。

去年の誕生日ーー琴子がプレゼントをもらっているのを横目で見たが、コメントを寄せることも揶揄することもせず、そして自ら無関心を装って琴子にお祝いの言葉を告げることすらなく、スルーしていた。

ーーね、これ着て入江くんに迫ってさ、早く仲直りしなよ。『プレゼントは私よ』って云ってね♪

そう、二人に云われて、困ったように「そうだね」と薄く笑っていた琴子。
前期試験とも重なっていたから、ろくに中を確認せずにそのまましまい込んでいたようだった。

すでに誕生日の前の夏休みから、二人の間におかしな空気が入り込んでいた。
いや、一方的に直樹が苛立ちに任せて琴子を無視して事態を悪化させていたのだが。

後々それが直樹の人間として未成熟さ故の嫉妬心と妻への独占欲がもたらしたのだと解明されたが、その時は琴子も、当の直樹すら何故このような状況に陥ってしまったのか解らないまま、どんよりとした夏から秋の季節をやり過ごしていたのだった。

今思い返しても、その時期の記憶は霞がかかったようにぼんやりとしている。訳の分からない苛立ちやモヤモヤした感情がとぐろを巻いて、けっして忘れない筈の記憶を曖昧模糊とさせているようだ。
数ヵ月もの間、琴子とろくに口を聞かず目を合わせることなく過ごす事が出来たことが、今となっては不思議でならない。

あの、食堂での劇的な仲直りの夜以来、ほぼ毎夜のように琴子を抱いている。
それはそれは大切な宝物を扱うように、出来るだけ優しく抱いているのだ。
なるべく琴子の良いように。
琴子が気持ちよくなるように。
琴子に奉仕するかのように、琴子の為だけにその身体の隅々まで愛した。
それはある種の罪滅ぼしのようなものだった。

一般的に妻に申し訳ないと思うなら、宝石だのバッグだの、もしくはデートや旅行だの、そういうことで贖罪をしようとするものだろう。
クリスマスにディナーとか、冬休みに二人だけで旅行とかーーその方が琴子もずっと月まで跳びそうな勢いで喜ぶ筈なのに、何故かそういうところには一切到達しない思考回路の持ち主なのだ。
そして、当の琴子も、直樹から随分酷い仕打ちを受けたことなど 、皆のいる食堂で愛の告白をしてくれたことですっかり舞い上がり、すべてを水に流してしまっている。

入江くんってば嫉妬するくらいあたしのこと好きだったのねっ
ずっと、ずっと入江くんに嫌われちゃったと思ってたから……
もう、おしまいだって思ってたから……
あたし、入江くんの傍にいていいって云ってくれただけで嬉しいの!

無条件に直樹の罪を全て許諾し、受け入れる琴子はまるで天使か女神だ。

それゆえに直樹は、愛しい琴子を毎晩可愛がり……(←エンドレスループ)


さて、話を戻そう。
つまりは去年貰っていたエロい下着を着けた琴子を賞味したいのだ。
以前ならなんの遠慮もなく、平然と要求出来たし、下着どころかもっと恥ずかしいあんなことやこんなことも………夜の寝室はなんでもアリだったりした。別に夫婦だから構わない。険悪になる前まではかなり冒険的、かつ刺激的な(どんなだよ)営みを試みてきたのだ。

だがどうにも琴子への罪悪感からか、仲直り以来、琴子が嫌がるだろうことを要求することが出来ないまま時が過ぎてしまっていた。

琴子が欲しそうな顔をしない限り、3戦目はNG。(でも2回はお約束)無論翌朝足腰立たないまで、なんてとんでもない。アブノーマルな小道具もアクロバットな体位も厳禁だ。(難易度BまでならOK?)
とにかく紳士に徹して、歯の浮くような愛の言葉だって囁くのだ(ベッドの中なら何とか出てくる)。


無論琴子はどんな直樹でも受け入れるに違いないのだが。
そしてどんな無体な要求もあっさり飲んでくれる。直樹の望みなら全面的に叶えてくれるのが琴子なのだから。
できることなら自発的にアレを身に付けてバレンタインのプレゼントとして自分を差し出して欲しいものだが、生憎琴子はその存在すら忘れてしまっているようだ。

ーー赤か、黒かどっちがいい?

さて、どっちがいいものか。
どちらも普段、琴子があまり選ばないカラーだ。
琴子と言えばオレンジやイエローのビタミンカラーなイメージだろう。下着は清楚なパステルカラーが多い。お約束の動物シリーズも健在だが、最近は花柄だのレースたっぷりのコットンキャミなども紀子の見立てか着用頻度が高い。

滅多にお目にかからない赤と黒の琴子……
どちらがいいだろう?
扇情的な赤……性的興奮を覚醒し、欲望を増長させる色だ。古来から女は赤い紅を唇に差して、男を誘惑してきた。
禁欲的な黒……高級感と静謐さを併せ持ち、それを解き放つ時、禁忌を犯すような破滅的な欲情を感じるだろう。

共に琴子らしいカラーではないが、逆に童顔の琴子にそれを着せることで随分と官能的で蠱惑的になることだろう。

赤か黒かーー

とりあえずバレンタインに着てもらうのはーー

「赤かな……」

鮮烈な赤は琴子の肌の白さをより際立たせるだろう……
欲望の赤。情熱の赤。官能美の赤………

『プレゼントは私よ』のコンセプトにぴったりなあの下着、赤は刺激的な夜をもたらせてくれる筈だーー


「えーー? 赤なの? 入江くん? ミルクチョコだよ、こっち」

琴子は赤と黒のチョコレートを手にして驚いたように二つを見比べている。

そう、とりあえずはまず赤だ。

「ちょっと甘いかも、だけど……?」

甘いおまえが食いたい。

「頑張って美味しい、チョコスイーツ作るね~~何にしようかなー♪ 生チョコ、トリュフ、ガトーショコラにフォンダンショコラ~~」




と、それが1週間前の話。

1週間の間に、琴子は練習を繰り返し、紀子の指導のもとしっとりとしたガトーショコラを完成させていた。2年前のリベンジといったところか。消し炭のような怪しい物体はなかった。少しは進歩したものだ。

「赤のミルクチョコたっぷり要れたからね~~召し上がれ」

バレンタイン当日に、1ホールのガトーショコラをにこやかな琴子の手によって、目の前に差し出された。

「じゃあ16分の1に切ってくれ」

うすーく切ってもらったガトーショコラは普通に食べれた。
随分頑張ったのだろう。
かといって、甘いものは基本好まないので全部食べれるかどうかはまた別問題。
濃厚過ぎるガトーショコラ16分の1に、琴子の珈琲2杯は必要だった。
琴子は自分で作ったケーキの4分の1を、「美味しい~~あたしって天才~~」と幸せそうに直樹と一緒に食べた。

「入江くんにやっとちゃんと食べてもらえて、こうして一緒にバレンタイン、お祝いできるなんて~~ああ、苦節何年かしら?」

ーーバレンタインって、何のお祝いだよ?

心の中で突っ込んでみる。ついでにいうと初めてのバレンタインチョコは一応食ったし。
それより、問題はこの後だ。

果たして琴子は自分の意図を汲み取ってくれるだろうか?

「……メインディッシュの赤はいただけるんだろうな?」

にやりと笑ったら、途端にぼんっ! と真っ赤になった。

どうやら意図は伝わっているらしい。

いや、絶対伝わってないと思って、引き出しの一番上に例のものを置いておいたし。

「おれが食いたいのは赤いチョコレートじゃねーぞ」

ーーと、なぞなぞのような命題も振っておいた。
琴子に察するなどという行為は難しいだろうと思っていたのだが、まさかきちんと夫の真意を読み解いてくれたとは。


「えーと ……『赤』だよね……」

「そう」

「じゃあ、お風呂入ってからね////」

お、まさかの正解?



『プレゼントは私よ』

その下着は実にコンセプトに忠実なデザインだった。
女性の身体をリボンで綺麗に結んだだけのシンプルさ。シンプルなだけに妙に淫靡だ。
胸の部分に施された大きなリボンをほどいたら、するりと一瞬で生まれたままの姿になってしまう。
赤い一枚の布のみで身体をラッピングした様相だ。




琴子の白磁の肌に鮮烈な赤のリボン……想像しただけで身体が滾ってくるのを感じた。



交代で風呂に入り、直樹が久しぶりの期待を胸に二人の寝室に戻ってみるとーー。

ベッドの上に。

牛がいたーー。

「………なんで、牛?」




そこには牛の着ぐるみパジャマを着て、ベッドに転がっている琴子がいた。

「えーと……牛って『赤』に興奮するでしょ?」

闘牛かよ。
にしては、ユルすぎるだろう、その牛は!

牛の興奮をあおる赤い布(ムレータ)ーー確かにあの下着に似ているが。

「牛は赤いものを見ると興奮すると思われてるが、実は牛の目は色を区別できない。実際は色でなく動きで興奮をあおってるんだ」

「え? そうなの?」

真面目に驚いて目を瞠っている琴子。

「そう」

むしろ、赤い布で興奮するのは闘牛士の方である。
赤はそんな魔性の力があるのだーー

いや、そうではなくて!!
なんで赤から牛に行くのか、その発想の斜め加減に思わず脱力を感じてしまう。

じゃあ黒だったらなんだ? 何が出て来たんだーー!
黒毛和牛かーー!(結局牛?)


軽くため息をついて、しかしこの際牛でも何でも琴子ならいいのだと、その牛の着ぐるみを剥いでいく。

「…………………!!」

着ぐるみを剥いだ途端……見えたのは、大きな真っ赤なリボン。肩と胸と足の間に一枚の布が交差して結ばれていた。

「おま……なんで?」

「あ、あ、やっぱり引いちゃった? 実は前に理美たちからこれ貰ったこと思い出して……丁度『赤』いし……でもね、なんか着けてたら、これ、妙に恥ずかしくなってきて、あたし何やってんだろって……あっ」

真っ赤になって言い訳めいたことをいい始める琴子の唇を塞いだ。

「大丈夫。全然引いてないから」

にやりと笑って、その申し訳程度に胸を覆っている赤い布の中に左手を差し込む。

「あん……」

一周回って正解にたどり着いたらしい。流石琴子と言うべきか。

さしあたり、このリボンを解(ほど)くのはどのタイミングがいいだろう?

きれいにラッピングされた琴子を食べる段取りを頭の中で構築しながら、直樹はゆっくりと愛しい妻の上に覆い被さっていった。



「明日は『黒』な」

ーーやはり、どちらも食べたいのだ。






後日談。

『白か? ピンクか?』


さて、『赤』も『黒』も両方いただいてご満悦な直樹だが、実は直樹以外にもそれを気に入った人がいた。
紀子である。
何にせよ、洗濯をすればバレバレなのだ。いや、はじめはこの長い布は何?ってことになったのだが、素直な琴子はあっさり、その用途を教えてしまう。
服を着たままその下着を着けてみせて、「なんかふんどしみたいかも?」なーんて、笑いあっていたら、帰宅した裕樹に見られてしまうというハプニングはあったのだが。
ことのほかその下着を気に入ってしまった紀子が、「琴子ちゃんには白やピンクも似合いそうね~~」と、あれこれ布地を買ってきてさくさくと作り始めた。何にせよ、単純な作りなので、製作はあっという間である。

そして完成された『プレゼントは私よ』の白やピンクのフェミニンバージョン。

今回ほど母の器用さを感謝したことはないかもしれない。

時折食べる刺激的な赤や黒もいいが、やはり常食には琴子らしさが滲み出たこちらの方がしっくりくる。


「いただきます」


バレンタインはとうに過ぎ去っても、琴子からのプレゼントは毎晩事欠かないのであったーー。






※※※※※※※※※※※※



お目汚しのラクガキでスミマセン……orz
自分で描いてイメージと違うわと身悶えするアホな私……(T_T)


あの赤と黒の下着の写真を見つけた時は、琴子ちゃんに着せたーいと、妙にテンション高く張り切ってお話妄想し始めたのに、ただ直樹さんがエロ親父のようになっただけで、イマイチ詰めが甘かった気がします(ーー;)

『赤と黒』という名作を生み出した千夜夢様に『赤か? 黒か?』でお話書いていいですか?とお伺いしたところ、快諾していただき、さらには『白か? ピンクか?』もアリですよ、と仰ってたいただいたので、使っちゃいました~~f(^^;
(ラクガキはピンクバージョンですが……分かりヅラ……)

着ぐるみシリーズもコラボっちゃいましたよ(^w^)むじかく様宅とクローゼッドも書斎の本棚も共有しているやもしれません(^_^;)四次元トンネルで繋がってるかも?

ちなみに2月14日は『ふんどしの日』でもあるらしいですf(^^;なんかフォルムは似てるのかも? と思っちゃいました(^w^)



2016.02.14 / Top↑


去年のクリスマスに始めたこのお話、密かに1月中には終わりたいと思いつつ、案の定2月までかかってしまいました。でも、なんとかバレンタインまでに終われて良かったです~~f(^^;


元々、思い付いたきっかけは、『お母さんが生きているけど入江くんは沙穂子さんと結婚している世界』、と今の世界どっちがいい? という究極の選択みたいなことを妄想したのが始まりでした。
まあ、結果はお話の通りですが(笑)
結局みんな別の世界、別の人生を過ごしてきた人たちだから、いくらお母さんが生きていてもそこに残りたい理由はなかったですね。

けれど、琴子ちゃんをお母さんと邂逅させてあげれて良かったです。それを終着点に見据えて話をつくっていったので。
ちゃんと温もりのある生身のお母さんと、琴子の本当のお母さん(こっちは生身じゃないけど)、なんとか両方に会わせてあげることが出来てホッとしております。

いやー途中沙穂子さんと入江くんが結婚してるってことで、思いっきり引かれるのではと心配してました。そのうえ、お嬢、あんなに出張ってきて。拍手がいつもより全然少なかったので、これはやっちまったか~~限定とかにすべきだったかな?と不安に陥りましたが、コメント寄せてくれる皆様とコトサホ喜んでくれたm様e様のメールに励まされ、なんとか最後まで乗りきりました。
意外と、沙穂子さんの幸せを皆様応援(?) してくださって良かったです。いやはや、最悪の結婚生活だったからね、それだけで十分制裁に価したのかな?
なんにせよ、入江くんが琴子以外を抱くという妄想ができません。なので、多分うちのブログではたとえ沙穂子さんと結婚してもセックスレス夫婦ですf(^^;

最後はかなり強引な離れ業で(又の名をご都合主義という)大団円にまとめてしまいましたが……f(^^;
とりあえずなんとか収束出来て良かったです(^_^;

このパラレル世界の二人のその後を、というリクエストをいただきましたが……実を云うと、この入江くんか沙穂子さんと結婚する話は、元々書きたかった長編を微妙に筋を変えてリメイクしたもので、(そっちは下関には行きませんが……片瀬氏は出てきます)いつかそっちを書きたいので、このお話のその後は皆様の妄想にお任せいたします。
もっともその話も表で書くのはどーなの?って感じなんで、裏を作るかオール限定で大丈夫なのか、などと模索しつつ構想2年以上( 笑)果たして書けるのか?


パラレルワールドについて。
元々子供の頃からSF好きです。SFジュブナイルという少年少女向け小説(今でいうラノベ?)よく読んでました。多次元宇宙とか次元パトロールとかの発想は完全眉村卓の『謎の転校生』ですね。
筒井康隆の『七瀬ふたたび』というエスパーものの話を子供の頃、NHKの夏休みドラマシリーズかなんかでやってて、スゴくはまりまして。(アンハッピーな結末なんですけどね)ヒロインのテレパスの持ち主七瀬を多岐川裕美さんが、予知能力者の青年を堀内正美さん(日キスの大泉会長さんです……ああ年とられたなーと妙な感慨がありましたわ)が演っていたの、凄く覚えてます。その後何度も映像化されてます。で、その話の中で時間跳躍力を持つ少女が、自分が時間を遡る度に、自分が元いた時点と、遡ってやり直した時点で二つの世界が生まれ、時間を戻る度にパラレルワールドが生まれてしまう、という説明をしてまして。結構それが頭に残っていて、無数に存在する平行世界の話を描いてみました。ま、うちのパラレルは時間旅行で生まれるわけではなく、AかBか迷った瞬間にもうひとつのIF世界が生まれるというかなり、なんだそりゃ?な(^_^;発想ですが。
いえ、表向きはそうですが、実は、『妄想の数だけパラレルワールドは存在する』 ということだったりしますf(^^;
二次作家さんのお話の数だけ、もしくはイタキスト様たちの妄想の数だけ、無数のイタキスパラレルワールドが存在し、そしておそらくほとんど全てがハッピーエンド!
一番書きたかったことを話の最後の色つき三行に込めましたが、実はこの話はこれまでたくさんのイタキスワールドを生み出して下さった素敵な先輩作家様方へのオマージュ……なのかもしれません。(←と、ちょっと、かっこよくまとめてみました笑)




長々と蛇足のようなあとがきで失礼しました(^_^;

インフルエンザが流行り始めているようですね。うちも受験まっただ中の娘がいるので戦々恐々です。下の学年で流行っているようですが、とりあえず受験生たちは気合いで乗りきっているのか? 3年生はまだ無事なようです(^_^;)
皆さま、くれぐれもご自愛下さいませ。



2016.02.05 / Top↑








「あ……お父さん」

1階のコンシェルジェボックスを離れて、エントランスホールに向かうと、ちょうど重雄が自動ドアのガラスの向こうで玄関に横付けされたタクシーから降りてくるのが見えた。
その後ろで、一人の女性がタクシーから降りようとして車の天井に頭をぶつけて、ホテルのドアマンに駆け寄られていた。

ーーあ、もしかして。

その女性はドアマンにペコペコ頭を下げてよろけながらタクシーを降りたあと、今度は走って重雄に追い付いて、その腕を掴まえていた。

(待ってよ、お父ちゃん)

声は聴こえないが、唇の動きからそんな風に笑いながら話しているのが見てとれた。

自動ドアが開いてホテル内に一歩足を踏み入れた途端に、琴子の方に視線を向けた。
一瞬にしてその姿を捉えたようだった。

「こーとーこーっ!!」

そして、重雄の前に立って、場所柄も全く考えず、大きな声を出して手を大きく振りはじめる。

ーーお母さん………

写真の顔と思うとかなり老けている。当たり前だ。父親より一つ年下の母は生きていればもう還暦を過ぎた年だ。
とはいえ、還暦過ぎにはまるで見えない。40代の紀子とさして変わらないようにも見える。
背も思ったより随分小さくて、遠目なら少女に見えなくもない。

「お母さん……」

ブンブン手を振って、その手が通りすがりの人の頭にあたって、思い切り睨まれ、ペコペコとまた頭を下げる。

へへっと頭をかきながらもすぐに琴子を見て、また大きく手を振る。

「お母さん!」

自然と足が大きく一歩を踏み出していた。
そして、駆け寄る。

お母さん お母さん お母さん!

「琴子……?」

母の胸に子供のように飛び込んだ。

一瞬驚いた顔を見せた悦子は、直ぐにふっと優しく微笑んで、娘の背中に手を回してぎゅっと抱き締める。


「琴子、大丈夫? 何処か痛いとこない?」

背中を擦りながら母は優しく訊いた。
そういえば、琴子がエスカレーターから転落したと聞いてわざわざ秋田から飛んできたのだ。
ついでに重雄から記憶が混乱していて何だか様子がおかしいと聞かされているに違いない。
老いた母親の看病で疲れているのに要らぬ心配をさせてしまったと、少し申し訳なく感じながらも、母の胸の暖かさに暫し浸ってしまう。

忘れていた母の薫り。
化粧や香水の薫りではない。シャンプーや焦げたクッキーや、色んなものが混ぜこぜになったような、不思議な薫りだった。
身長はさほど琴子と変わらなかった。
幼い頃はいつも小さな琴子の背に合わせて、膝をついてかがみこんでぎゅっと抱き締めてくれていた気がする。

おかあさん、ぎゅう、しよー

そう言うと手を大きく広げていつもにこにこして琴子を迎え入れてくれた。
そんな忘れていた記憶が突然ふっと沸き起こった。

鼻の奥がつんとした。
自然と身体が震えて嗚咽が漏れる。
いつの間にか涙が溢れていた。
永遠に会うことはないと思っていたひと。
もう二度とその腕に抱かれることはない筈だった。

「……琴子? どうしたの? あんたがこんな風に抱きついて泣くなんて、中学校の時、お隣の美和ちゃんが引っ越しちゃった時以来じゃない?」

「………………」

優しく髪を撫で付けながら云った母の言葉に一瞬、はっとする。

「……琴子?」

怪訝そうな母の顔。

「お母さん、ごめんね」

「何が?」

「色々心配かけちゃって」

「何いってんの。子供は親に心配かけて成長してくのよ。あんたが無事なら全然大丈夫なんだから」

ふふっと笑って琴子の長い髪をさらりとすきとる。


「琴子さん、そろそろ……」

耳元でノンちゃんの声が聞こえた。

もう時間なのだ。

「お母さん、ごめん、ちょっと部屋に忘れ物。フロントに行かないと」

涙を拭いて、母の顔をまじまじと見つめる。

そっかあ。
あの写真が年を重ねるとこうなるんだ。
年の割りには肌も張りもあって、皺も少ない。でも笑い皺だけはしっかりある。
本当に可愛いおばちゃん、といった感じで優しさと朗らかさが滲み出ている。

自分とそっくりだという悦子。
自分も60過ぎたらこんな感じになるのだろうか。

そんなことを思いながら、離れがたい身体を引き剥がす。

「………じゃあ……お母さん……」

ダメ、変に思われる。
そう思ってもまた涙が溢れてきた。

もう、これで。
今度こそ永遠にーー。

ぎゅっと拳を握りしめ、琴子は母に背を向け、エスカレーターの方へ向かった。

「琴子!」

母が突然声を掛けてきて振り返る。

小さな紙の包みをぽんと放り投げて、琴子は慌ててそれをキャッチした。

「それ! 琴子欲しがってたでしょ? 駅の土産物売り場にあったから買っちゃったの!」

にっこりと笑って母は再び思いっきり手を振った。

何故今このタイミングで渡したのかーー
また後で会うと思っている筈なのに。
一瞬だけ琴子はちらりとそんなことを考えたが、

「琴子さん、早く」

傍らで囁くノンちゃんの言葉に促され、その手のひらに入ってしまう小さな紙の袋をぎゅっと握りしめてエスカレーターに足を掛けた。


「あっちの琴子さん、ちゃんと来るかな」

ノンちゃんが少し心配そうに呟いた。

「ーー来るよ」

琴子は妙に自信ありげに断言した。

「あたしもね。さっきお母さんに抱き締められた時、少しだけこのままずっとお母さんと居たいって思った。
でもねーーやっぱり違うの。
あたしは、お母さんとの小学校の想い出も中学校の想い出も何もないの。あたしにはお母さんと過ごした記憶は何一つないわ。だってあのお母さんに育てられた琴子じゃないもの。きっと、お母さんには一瞬で違うって見破られたような気がする。
だからね。それは向こうに行ってた琴子も同じ。いくら入江くんと結婚してる幸せな人生でも、あの琴子には二人の6年の記憶がなくて、二人の積み重ねてきた生活を知らなくて、それなのにあたしに成り変わって向こうで暮らそうとは思わない筈だよ。ましてや、あっちはお母さんが亡くなってる。そんなの耐えられないと思う。こっちに、ちゃんと琴子を愛してくれてるお母さんがいるのに、向こうに残りたいなんて、きっと思わない」

「……………本当だ」

そうノンちゃんがくすっと笑うと、エスカレーターの上から、もう一人の琴子が降りてきた。
あの日琴子が着ていたワインカラーのスーツに身を包んで、紀子から貰ったミニボストンを持ちーー

そして、その横にはーー

「お母さん………」

それは、写真のままの若々しい母だった。
自分の案内人であるノンちゃんのように、あちらの琴子の案内人として、琴子の傍にぴったりと寄り添っていた。

「お母さん…………」

不思議だった。
自分の背の後ろには年を重ねた母がいて、自分の前には若々しい母がいる。

『 琴子………』

声は耳からではなく、頭の中に直接流れ込んできた。

『………ごめんね』

「え?」

早くに死んじゃってごめんね

寂しい思いさせて、ごめんね

いっぱい愛してるって云ってあげられなくてごめんね

辛いときにぎゅうっと抱き締めてあげられなくてごめんね



優しくて切なくて慈愛に満ちた溢れんばかりの想いが、琴子の中に雪崩れこんできた。


「お母さんっ」

涙が溢れて目の前が霞む。
母の顔をちゃんと見たいのに!

お母さん。

謝らないで。

あたし、大丈夫だったから!

お母さんいなくて寂しかったけど、お父さんがその分愛してくれたから

入江くんちでみんなに優しくしてもらって

入江くんと結婚できて

とても幸せだからーー

だから心配しないでーー




ゆっくりとエスカレーターは母を近付けてくれる。
遠い記憶の母の顔、そして写真で見た頃の母そのままでーー
涙で霞むのを阻止しようと、必死で涙を拭う。

二人の琴子の距離は徐々に縮まり、昨日のように長いエスカレーターの中央で、二人の位置は重なろうとしていた。


手を延ばす。

母に向かって手を延ばし、母も優しい笑みを携えて琴子の方へと手を伸ばした。
けれども無情にもその手は触れあうことなく母の身体を通り抜けていく。
そして、母の横にいた琴子の腕に触れたーー。



そしてーー


光がーー弾けた。


ーー琴子……直樹さんと幸せに………


遠い世界で反響する木霊のように最後の声が届いた。


世界は真っ白な虚無の空間になって、二人を包んでいったーー。





ーー琴子さん。

不思議な感覚。雲の中にいるような、銀河系の渦の中にいるような。
乱反射する白い光の中で、ノンちゃんの声が聴こえた。

ーーありがとう。お陰で、僕もちゃんと生き返ることができるよ。

僕は、こうなる前まで人生なんてどうでもいいと思ってた。
死ぬのが怖くて成功率の低い手術を受けるのを拒んだくせして、生きてたって意味なんてないーーなんて虚勢を張って。
親も友達も一緒に仕事する大人たちも、みんな誰も信用できなくて、自分は孤独だと思い込んでた。
でもね。
生霊となって、次元パトロールとなって、いろいろなパラレルワールドを見て、はじめて生きたいって思ったんだ。

それはね。

どの次元でも、どの世界でもーー必ず琴子さんと直樹さんは結ばれる運命にあってね。
例えば琴子さんが斗南高校を選ばなくて、入学式に一目惚れすることがなくて、地震で家が潰れなくて同居することがなくても、二人は社会人になってからちゃんと出会うし。
例えば直樹さんがT大合格しちゃって別々の大学生活送って、琴子さんちも早々に入江家を出てしまって二人の接点がなくなったとしてもーー
どんなにすれ違っても、必ず二人の道は何処かで交差する運命なんだ。
そして、必ず、琴子さんは直樹さんを好きになるし、直樹さんも琴子さんを愛するようになる。
この何億通りもあるパラレルワールド全ての次元の中で、必ず二人は結ばれるんだ。そんな運命の二人なんて数多ある世界のなかでもそうそうないよ。
二人は世界最強の鋼の強さを持った合成繊維性の赤い糸で、それはそれはもう強固に繋がってるんだ。
そしてね、二人の幸せは彼らの周囲すべてに伝染する。
二人の知り合いはもちろん、その知り合いのまた知り合いまで、ずーっと幸せが伝播して、みんな幸せになっていくんだ。
だからね、僕は、自分が凄く勿体ないなって思ったの。
二人とかかわり合いのないところで、自分だけ幸せじゃなく死んでいくのが。
だって、他の世界の『僕』は、琴子さんや直樹さんと再会して、どの『僕』も生きる希望を見いだして幸せになってるんだ。なのに、僕だけ二人に再会する前に死ぬかもしれない、なんてーーそんなのなんかズルい、とか思っちゃって。
だからーー僕もちゃんと生き返ってやり直したかった。
そう思ってたら神様からチャンスを貰えた。
これでやり直せるよ。

ーーありがとう、琴子さん。

生き返ったら必ず二人の元に行って、二人の幸せを見届けるからーー

絶対に幸せになるからーー

安心してね、琴子さんーー














ーー琴子! 琴子! 琴子!

遠くで声が聞こえた。

ああ……入江くんの声だ。
大好きな低音ヴォイス。
段々近付いてくる。

どうしたの?
何故そんな、切羽つまったような、不安そうな声であたしを呼ぶの?

あたしはーーここだよ。

ここにいるから。



「琴子!」

「う……ん」

瞳を開くと、直樹の顔が超ドアップで目の前にあった。

ああ、やっぱり綺麗な顔だなー
何度見ても飽きない………
ったく、男なのになんでそんな長い睫毛してるのかしら……あたしより絶対長いよー

「入江くん……今日もなんてカッコイイの……」

琴子の呟いた一言に、直樹は一瞬眉を潜めた。

そして、すぐに安心したように大きく息をついた。

「…………ったく、毎度毎度心配させやがって……」

「 え……?」

状況がよく飲み込めず、とりあえず身体を起こそうとするとーー

「いたたたた……」

身体中の節々が痛い。

「ばか、無理して起きるな」

直樹が琴子の背に手を回し、ゆっくりと身体を起こさせる。

「あたし……なんで…? ここ、病院?」

ベッドの周りはぐるりとピンクのカーテンで覆われていて天井以外何も見えない。しかし薬品の匂いと慣れた雰囲気で此処が病院だと一瞬で察した。
バイタルチェックのモニターが横にあるが、電源は入っていなかった。
点滴台は枕元にあるが、これも繋がれていない。
病室にあるようなテレビ台などはなかった。


「ああ、斗南の救急外来の処置室。外傷は全くないから安心しろ」

「お兄ちゃんがエスカレーターから落ちてきた琴子ちゃんをキャッチしたのよーもう、やれば出来るじゃない!」

横で紀子が楽しそうに応じる。

何だか久しぶりに義母の顔を見た気がして、ちょっとほっとした。

「覚えてない? 琴子ちゃん。ホテルのエスカレーターで………」

「ホテル……あ……!」

混濁していた記憶がふいに鮮明な形で蘇る。
不思議な24時間の記憶がーー

「今日は……いつ? 何日? ねえねえ! あたし、入江くんの奥さん?」

ここはーーどっちの世界?

たまらなく不安な気持ちになった。

「おまえ、大丈夫か? 一応CT取って問題なかったし、頭は打ってない筈だが……」

直樹が琴子の真正面に顔を近付けて、顔色をじっくり見たり親指で下瞼の裏をチェックする。

「少し貧血気味くらいだな。クリスマスイブのために無理のあるシフトにしたせいじゃないのか?」

「貧血って……もしかして赤ちゃんとか?」

紀子の顔がパッと輝く。

「それはない」

「そんな、お兄ちゃん、即答しなくても」

「昨日救急で運ばれた時、きちんと調べた。女性が病院にかかるとき、妊娠の有無を確認するのは最優先事項だ」

「もう……クリスマスイブに頑張ったんならもしかしてって可能性もあるんじゃないの~~? 」

紀子がにや~~と笑って直樹を突っつく。

「2日でわかるかっ! 第一、排卵日に当たってないからまず無理!」

「入江くんっ! そんなこと、此処で云わなくても……////////」

顔を真っ赤にして焦る琴子を横目に、直樹が至って真面目に、「とにかく、ふらついたのは貧血のせいだけとは限らないから、精密検査だけはきちっとするぞ」ときっぱりと告げる。

だがとりあえずその言葉で、直樹がちゃんと自分の夫であり、医者をしている元の世界に戻れたのだと心から安堵した。

「………今日は何日?」

琴子が恐る恐る訊ねる。

「12月26日。今は午前10時」

タイムラグはない。
あっちの世界で悦子に会ってからエスカレーターに乗って、それから2時間半くらいの時間だろう。

「で、一体なんだって2日に渡り同じホテル、同じ時間に、同じエスカレーターから転落したのか説明してもらおうか?」

「えーと……」

説明しろと云われても、昨日、もう一人の琴子がこっちの世界でどんな状況で過ごしていたのか分からないので応えようがない。

「………ごめん、ちょっとクリスマスの朝以降の記憶が曖昧で……」

必殺奥の手で誤魔化してみる。

「それで……あたし…昨日、何してた?………なんか、おかしくなかった?」

おずおずと訊ねる琴子に、直樹は怪訝そうに顔を見つめ、「おかしい。CTじゃ何も異常はなかったのに」と、腕を取って脈拍を診る。

「あ………」

腕にはイブの夜に直樹に付けられた情 交の痕があった。

ーーあたしの身体だ………

ふと、この身体か唐突にいとおしくなって、自らをぎゅっと抱き締める。

ほんの数時間前、母に抱き締められた身体とは違うけれど、感触は覚えている。

「琴子……どうした?」

突然自分を抱き締めて涙を潤ませ始めた妻に少し慌てたようだ。

「……昨日から少し情緒不安定なのよ。もう、お兄ちゃんてば琴子ちゃんに何をしたのよ?」

「何もしてねーよ。悪いがおふくろ、少し席外してくれ」

「はいはい、お邪魔虫は退散ね。琴子ちゃんは大丈夫なのよね?」

「ああ、血液検査に問題なければ今日は帰れるだろう。また精密検査に来るかもだが」





「……で、一体何がどうなってるんだ?」

紀子がカーテンの外に出ていった後、もう一度直樹が琴子の両頬を大きな手で包んで、間近でそう問い掛ける。

「やーん、どアップ……」

キスやそれ以上のことが日常の中に溶け込んでいるクセに、自分の顔のすぐ近くに直樹の流麗な容貌があるだけで、心拍数があがってしまう。

「……昨日の朝、エスカレーターから転落したと聞いた時も、どんだけ心配したと思ってんだ。異常はないといいつつもおかしなことばっかり云ってるし」

「……おかしなこと?」

「俺が沙穂子さんと結婚してるとか、秋田にお母さんが帰ってるとか……下関の家がどうとか……真剣に何か記憶障害にでもなったのかと思って焦ったぞ。とりあえず昨日は1日、脳外に、神経内科や精神科心療内科……色んな文献漁ってた。おまえ、部屋に立てこもるかのように出てこないし」

「そ、そうなの……?」

どうやら案内人の母は引きこもり作戦に出たらしい。
下手にこっちの人たちに関わると不審に思われると踏んだのだろう。

「………何となく、おまえじゃないような気がして、そんなこと有り得ないのに変な違和感を覚えた」

直樹はすぐに気がついたのだ。

恐らくはーーあっちの悦子のようにーー一瞬で。

ちょっと嬉しい。
でも、説明に困る。
直樹も感覚的な違和感を、きちんとした医学的論理的な解釈が出来ずに戸惑っていたのだろう。

「色々話して確認したくても、ほんと断固として部屋から出てこねーし」

うん、きっと、琴子もどうすりゃいいかわからなかったんだよね。
こっちの世界では母は死んでると、当の幽霊な母に説明を受けたのだろう。自分以上のパニックだったに違いない。

「今朝になって突然、あのホテルに行くからと飛び出して……追いかけてったらまた、同じエスカレーターの真ん中で突然ひっくり返るし」

「……それで入江くん、受け止めてくれたの?」

「ああ。完璧にキャッチしたつもりだったのに、おまえ意識失って目覚めないし……」

「ありがとうっ」

琴子はがしっと直樹の首にしがみついた。

「入江くんはケガしなかった? 」

「今度はきっちり踏ん張ったから」

「………よかった」

「……それで、おまえ一体……」

「………訊かないで……訊かれても上手く説明出来ないから……それに、あたし、もう大丈夫だし」

「琴子!」

「心配させて、ごめんね? 本当にもう大丈夫だから……」

瞳を潤ませてそう訴える琴子をしばらくじっと見つめた後、軽くため息をつくと、「わかったよ。訊かない」と云ってから抱き寄せた。

「そのかわり2度とこんなことは勘弁してくれ」

「………はい」

引き合うように互いの唇が触れる。
久し振りのキスーーといってもホテルで熱い一夜を過ごした時から1日しか経っていない訳なのだが。

「………昨日のあたしにキスした?」

少しだけ気になることを訊いてみる。

「だから、引きこもってて殆ど会ってないって」

「そっか……」

少し安心する。
自分の身体だけど自分じゃない琴子に直樹がキスするのは何となくイヤだった。

あたしってちっちゃいなー

あっちの琴子の方がずっと辛い思いしてるのに。

でも、多分、あっちの琴子もこの直樹じゃなく、自分の世界の直樹にキスして欲しい筈。

ーー幸せになれるといいなあ……

そんなことを思いながら再び降りてきた直樹のキスを受けているとーー

「入江さん……意識が戻られ……あ、すみませんっ!」

救命のナースがカーテンを引いて中に入ろうとした途端、二人のキスシーンに遭遇して赤面していた。

「………//////!」

琴子も真っ赤になって慌てて離れるが、直樹は全く無表情でしれっとしている。

「えーと、入江先生、血液検査の結果でましたけど。奥さまの様子は……」

検査結果をもらい、それを一瞥した直樹は、「問題はないようですね。状態も安定してますから、担当の岸先生にもこのまま帰ると伝えてください」と平然と告げる。

「は、はい……」

慌ててナースは出ていった。


「な、なんか救命にも変な噂がたちそう……」

琴子がぶつぶつ呟いていると、

「変な噂ってなんだよ」

「入江夫妻はところ構わずキスしてるって」

「事実だからしょーがないだろ?」

イヤ、キスだけではないらしいという噂もーー

にやっと笑ってもう一度琴子の頤を捉えると、軽く唇を啄む。

「あ、入江さん、お荷物こちらにーーあ、ごめんなさいっっ////」

またまたタイミング悪く別のナースが入ってきた。

コントのようにばっと離れて慌てて枕を抱き締める琴子に、ばつが悪そうに、新人らしいナースがカバンなど荷物を渡す。身に付けていたサファイヤリングも外してくれていたようで、差し出されたトレイから取って、改めて左手薬指に嵌め、少し不思議な気持ちでマジマジと見つめる。

「あと、運ばれた時に、ずっとこれを握りしめてたんですけど」

「……え?」

差し出されたのは、小さな紙の小袋。中に何か入っている。

「………どうして、これがーー?」

握りしめていたのはもう一人の琴子の身体。心だけが入れ替わっていたのだから、物質がこちらにくることなどない筈なのに。

紙の包みを開くと、中から出てきたのはーー

「何だ、そりゃーー?」

直樹が覗きこんで眉を潜める。

「なまはげ………」

それは、赤と青の二種類の御守りタイプのストラップだった。御守りには『泣ぐ子はいねがー』というセリフとあまり怖くないなまはげのイラストが描かれていた。

………あたし、こんなの欲しがってたの?

何だか笑えてきてしまう。
それを見つめて、くっくっと肩を震わせて笑う。

笑いながらも涙が溢れてくる。

「……琴子……?」

何故、これだけ次元を越えて手元に残されたのかーー

その理由は全然分からないけれど。

唯一遺された、奇蹟の証のような気がした。

ーーお母さん……ありがとう。あっちの琴子を助けてあげてね……

「入江くん。これ、ペアだからちゃんと入江くんも持っててね」

涙を拭いながら、にっこりと琴子は笑って、封を開けて中から出した青いなまはげストラップを直樹に渡した。

「物凄い御利益ある筈だから! 絶対に大切にしてね」







ひとつ、後日談がある。

家に帰った琴子が自分達の部屋の机の上をふと見ると、置き手紙のようなものが置いてあった。

『本、かります』

自分の筆跡だったが、自分が書いたものではない。

よく見ると看護婦国家試験の参考書が一冊なくなっていた。

看護学生時代のテキストをあれこれ見ていた形跡もある。

借りるってーーどうやって返すつもりだったの?

琴子は思わずくすっと笑ってしまった。

自分のなまはげストラップのように、あっちの琴子は無事本を持って行けたのだろうか。

おそらく。
直樹が医学部に行き直したと聞いて、自分も看護婦を目指したいと密かに思っていたのだろう。昨日引きこもりながら琴子の医療関係の本を見て色々考えていたのかもしれない。自分と同じだから想像がついてしまう。


ーーカンバレ、もう一人の琴子。

あんたは絶対大丈夫だよ。絶対看護婦になれるし、絶対入江くんと結婚できるからーー
お母さんを大切にして、幸せになってね。

心の中で、エールを送り続けていたーー。


そして。
それから数日の間ーーそんな風に時折別の世界の自分を想い、母を想っていたのだけれどーーいつの間にかその記憶はぼんやりと霞んで行き、新しい年を迎える前には、その不思議なクリスマスの24時間の出来事が、琴子だけでなく、直樹や紀子からも消えて去っていった。

ーー多分、修正されるからーー

ノンちゃんの言葉の意味を悟ることもなく、琴子はすっかり別の次元の存在も、母と出会ったことも忘れてしまった。

ただひとつ残されたストラップも、何故それを持っているのか、誰にもらったのか思い出せないまま、それでもずっと大切に持ち続けていた。

それを見ると、心の中にじんわりと温かいものが溢れかえってくるのだ。
懐かしくて、切なくて、とてもいとおしいかけがえのない大切な想いがーー。










* * *


「………ノブヒロ……目を覚ましたのね? 先生! 先生! ノブヒロの意識が戻りました!」

ここは何処だろう?
彼はぼんやりと辺りを見回す。
長い間眠っていたような、あるいはずっと起きていたような。

「ああ、良かった……良かったわ。もうこのまま意識が戻らないのかと……」

どうして泣いているのだろう? 母さん……


どうやら死にかけて助かったらしい。
彼の回りにはばたばたと医師や看護婦が集まり「こりゃ奇跡だ!」などと叫んでいる。

そうか。奇跡なんだ。

何だか長い夢を見ていた気がする。
少しも思い出せないけれど。

ーーただ。

「母さん……」

「え?」

「裕樹、覚えてる?」

「昔、一緒に入院してた?」

「うん。手紙あったよね。探しておいて。連絡取りたくなった……」

「どうして? 突然……?」

「わからない。わからないけどーー」


早くーー会わなくちゃいけないんだ。
ちゃんと見届けるためにーー



全ての人たちを幸せに導く歯車が、きっちり噛み合って、ゆっくり動き出す瞬間をーー見届けるために。





どの世界でもどの次元でも二人は必ず結ばれる。最強にして最高の赤い糸が彼らを繋げているのだからーー










※※※※※※※※※※※※


………終わりです。(突っ込みどころ満載ですが^_^;)

気力があれば、後程あとがきなぞ書くかもしれません……(^_^;

前話分のリコメ、滞っていてすみません。週末くらいにのんびり返信いたしますのでお待ちくださいませ……f(^^;








2016.02.03 / Top↑