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八月はラムネ色

2015.08.02(21:37) 156






~199008××




うだるような熱さが、空からも地面からも襲いかかり、世界が熔けてぐにゃりと歪んでしまうような気さえするーー8月の午後4時。陽も傾きかけているというのに、蓄熱された大気はそこかしこに滞っているようだ。

「ただいま………」

玄関の開く音と、琴子のか細い声が聴こえて、紀子はキッチンから顔を出した。

「おばさん、お水ください……」

ふらふらとリビングに入ってきた琴子の顔は妙に赤い。何だか目も焦点が合っていないような気もする。

「 琴子ちゃん? 大丈夫?」

「はい ………ちょっと、外が暑すぎて」

「お水より、スポーツドリンクの方が……あら、切らしちゃってるわ」

冷蔵庫を開けて困ったように中を探索している紀子に、「いいですよ、お水で」と琴子もキッチンに入った。

紀子から冷たいミネラルウォーターを受けとって、ごくごくと喉を鳴らして飲み干す。

「はあ……生き返る……」

「汗かいたでしょ? シャワーを浴びてきた方がいいんじゃない?」

「はい。そうします。制服、早く脱ぎたい……」

制服の裾をパタパタと扇ぐ。

「顔が赤いのは日焼け? 熱中症じゃないかしら」

「うーん、補習が終わった後、みんなとお茶して、街の中をぷらぷら歩いちゃったから……でも大丈夫です! シャワー浴びたらちょっと寝ます。暑さにヤられただけですから…」

へへへっと、舌を出して力なく笑い、着替えを取りに部屋へ戻る。

窓を開け放して風を通してあるものの、部屋の中もまだむわっとするくらい暑い。
窓を閉めてエアコンのスイッチを入れてから、先に制服を脱いで、パジャマ兼用のルームウェアに着替えた。

シャワーを浴びに行かなきゃ、と思いながらも身体が億劫だった。
頭がズキズキする。

琴子はそのまま、どさっとベッドの上に倒れた。


ーー入江くんは………まだ、本屋さんにいるのかな……?

ぼんやりと想う。

夏休みだというのに補習の為に出校している琴子と違い、直樹は部活に参加していた。
当然帰る時間も違う。
けれど、今日は偶々、理美やじんことお茶をして駅で別れた時、駅から出ていく直樹の姿を見かけたのだ。

その駅は普段使っている駅ではなくて、理美がその周辺にある最近オープンしたお洒落なカフェに行きたいということで寄り道した駅だった。
だから、何故直樹がこの駅に降りたのはわからなかったが、こんなに凄い偶然ってある? ちょーラッキー! と、ばかりに「入江くーーん!」と声を張り上げて呼び止めた。

直樹はぴたっと止まって振り向いた。
そして、琴子の姿を視認するやいなや思いっきり眉を潜め、顔をしかめた。

「……なんで、おまえ、こんなとこにいるんだ?」

「じんこたちとお茶してたの。あっちのカフェで。入江くんこそ、なんで?」

「新しい洋書専門店がオープンしたっていうから覗きに」

ため息混じりに答える直樹に、
「ねえねえ、あたしも付いてっていい?」と、琴子がすがるような瞳を向けたのをあっさり無視して歩き始めた。

「来るなって言っても付いてくるんだろ? 勝手にすれば?」

おまえが来たって何の意味もない場所だけどな、と馬鹿にしたような呟きは聞かなかったことにして、背中越しに聴こえる声に了承は得たのだと、琴子は跳び跳ねるように追い付いて直樹の隣に並んだ。

な、なんだか制服デートみたいじゃない?

目的地はともかくとして、一緒に歩くこの過程が重要なのだ。

ちょっとワクワクしながら直樹の横で彼の顔をちらちらと眺めながら歩き始める。

けれど、二人並んで歩いたのはものの数分で。

如何せん、直樹の歩く速度は速い。そのうえコンパスも違う。一歩の歩幅が琴子の倍近くあるのだ。
並んで歩こうとすると、琴子はもう足がもつれそうになるくらい倍速速足にしなくてはならない。

そして、直樹は琴子に合わせようという気は微塵もないようだった。

勝手にすれば?ーーというのは、つまるところ、付いてこれるもんなら勝手にすれば? と、云うことだったらしい。

必死になって彼と並ぼうとしたのに、どんどん引き離されて、最終的には琴子は小走りに走っていた。

どん、と行き交う人の肩にぶつかって、ぎろっと睨まれ、「ごめんなさいっ!」と謝っている隙に、直樹はさっさと行ってしまった。

「……入江くん、待ってよ……!」

力なく叫んでも、直樹は振り返らない。
元々琴子が勝手に付いてきたこと。待ってやる筋合いなど欠片もない。恐らくそう思っているのだろう。

やがて二人の距離はさらに広がって。
人通りの激しい表通りの雑踏に紛れて、直樹の背中が見えなくなっていく。
それでも琴子は必死に追いかけた。もう完全に走っている。
汗が目に入って、痛みに顔をしかめている間に完全に見失ってしまった。

琴子は暫く、直樹の目指していた洋書専門店は何処だろうと探し回ったが、散々歩いた割には見つけることができなかった。

炎天下の中、照り返しの激しい舗道を歩き続けた琴子は、だんだん気分が悪くなるのを感じて、諦めて引き返した。
つまるところ撒かれたのだろう。
最初から琴子を伴って目的地を目指すつもりなどさらさらなかったのだ。
面倒な奴に会ってしまったな、と迷惑にしか感じてなかったということだ。

そう思うと、激しい疲れと暑さによる倦怠を伴って、どっと気分が落ち込んでくる。

一緒に暮らし始めてまだ数ヵ月とはいえ、寝食を共にする家族としての思いやりすらないのだ。女としてなんて、勿論のことーー
分かってはいるけれど、こうもあからさまだとやはり凹んでしまう。

直樹の中で自分の存在なんて、本当にどうでもいいものなんだ。


ベッドの上で、今日の出来事を思い返していたら、いつの間にか頬に涙が伝っていた。

追いかけても追いかけても、永遠に追い付かない。消えていく白い背中が、決して手の届かないものなのだと思い知る。
まるで自分達の関係を暗示しているようだーー。

うつらうつらとしながらーー。

直樹の姿を探して街の中を探しまわる夢を、ずっと見ていたーー。





「あら、おかえり、お兄ちゃん」

琴子が帰ってから一時間程して直樹は帰宅した。

「………琴子は?」

冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぎながら訊ねた。

「 まあ、珍しい。お兄ちゃんが琴子ちゃんのこと気にするなんて。4時頃帰ってきたけど、部屋で寝ているわ。シャワーを浴びに来ないから覗きにいったの。なんだか気分悪そうにしていたから……軽い日射病じゃないかしら」

「ふう……ん」

ちらりと横目で見た息子の顔は特に色を成すことなく、普段と変わらぬ仏頂面であった。
しかし、紀子が冷蔵庫から食材を取り出しているその隙に直樹の姿はもうなかった。

「お兄ちゃん? 」

がちゃりと、再び玄関から出ていく音がした。








ーー夢を見ていた。

街のなかで迷子になっている夢。
右手にはお父さん、左手にはお母さんがいた筈なのに。
いつの間にかいなくなってしまった。
見知らぬ場所で、ぽつりと一人取り残されて、不安で心細くて…………
駆け出して、探しまわる。

ーーお父さん! お母さん!

叫びたいのに声が出ない。
どうして? なんで? 置いていかないでーー

泣いていると、急にほっぺにひんやりとしたものが当てられた。

「ほら、琴子。ラムネよ」

ブルーグリーンの綺麗な硝子瓶が、琴子の頬に押し付けられていた。しゅわしゅわと炭酸の粒がガラス玉と一緒に瓶の中で泳いでいた。

お母さん……
お母さん……

ラムネを持ってにっこり笑っている優しい母の顔ーー

よかったぁ………

「お母さん……冷たい……」

「ばあか。誰がお母さんだよ」

「え? え? 入江くん?」

優しい母の顔は、何故か不機嫌で美しい王子様に変わっていた。

そして、ほっぺたに張り付いているのは、ラムネではなくて、青いスポーツドリンクの缶。アルミ缶なので冷たさもひとしおだった。


「ほら、飲め。汗かき過ぎた時はイオン飲料がいいんだ」

「……ありがと」

起き上がり、プルトップを引いて、ドリンクを口にする。

「………美味しい」

ほうっと一口飲んだ後、「これ、入江くんが……?」と不思議そうに訊ねた。
それには応えずに、直樹は、
「もう、体調はいいのか?」と逆に問いかける。

琴子ははっと気付いて、「別に入江くんのせいじゃないよ」と慌てて告げた。

「あたりまえだ。あんな炎天下、勝手にくっついてきてウロウロしてるおまえが悪い」

直樹はそういい放つと、最後まで不機嫌そうな顔で、渡すものは渡したとばかりにさっさと部屋から出ていってしまった。

琴子は閉められた扉をしばらく見つめた後、手の中の飲料缶にぼんやりと視線を移す。
缶に付いた水滴がぽつりとタオルケットを濡らした。
確か家の冷蔵庫にはスポーツ飲料はなかった筈。わざわざ直樹が買ってきたのだろうか?

ーーまさかね。

でも、部屋までこれを持ってきてくれたのは……あたしのため?

なんで? どうして? さっきはあんなにイジワルだったのに。

気まぐれでも気の迷いでも。
ほんの一瞬でも自分のことを気にしてくれた時間が、直樹の中に存在していたということが嬉しくて。




ーー諦めようと思っても………

こんな些細なことに、心がふるえる。

忘れることなんか出来ないーー。



琴子は、泣きたいような、笑いたいような気分で、残りのスポーツドリンクを飲み干したーー。








* * *




~199408××




「入江くん、待ってよ」


午後の日差しが例えようもなく肌をじりじりと突き刺す。
8月の都会の大気は灼熱地獄のようだ。行き交う人びとの顔も何だかみな虚ろに見える。

「付いてくるなって云ったのに勝手に付いてきたのはおまえだろ?」

「 そ、そうだけどさ ……」

だって、九州から帰った後、結局二人で過ごす時間、全然なかったじゃない。
学生最後の夏休みなのに。
結婚して初めての夏休みなのに。
九州も……そりゃ……有意義な部分もあったけど……少しも二人で甘い時間は過ごせなかったわけだし。
なんかつまんないなーって。
入江くんが本屋さんに行くのにちょっとくっついて、デート気分味わうくらいいいじゃない。
なのにあんなに、邪魔だの、鬱陶しいだの云わなくっても………

琴子はぶつぶつと口の中で恨み節を呟きながらも直樹の後を必死で付いていく。直樹のすげないのはいつものことだ。これくらいで凹んでなんていられない!

手を繋ごうとその手を掴むと「手汗」と振り払われた。

確かに暑いけどね。
手はじっとりと汗ばんでるし。
でもーーでも、夫婦だよ? あたしたち。

琴子はめげずに今度は腕に掴まる。
ここならいいでしょ? と、ばかりに。

「余計、暑苦しいだろうがっ」そう言ってあっさりと振り払われる。

確かにイラっとするほど暑い。
暑いのに、日曜日の表通りは人混みも激しくて。なんでこんな暑い時間にみんな外に出てるんだ、と自分達のことを棚にあげて呟いてしまう。
ふらふらしているとすぐ前から来る人とぶつかる。

その度に直樹が「何やってんだ、ばか」と顔をしかめ、一瞬だけ、腕を掴んで自分の方に引き寄せる。

直樹の足の速さは相変わらず。
今日は人混みが激しくて前に進みづらいが、一人ならいつもの軽快さでさくさくと人を避けて行ってしまうのだろう。
ハンドタオルで汗を拭きつつ歩いていると、琴子は気が付くと直樹より半歩遅れていた。

「あん、待って」

今度は直樹のシャツを掴んだ。

しばらくは琴子が直樹のシャツの裾を握りしめて引っ張られるように歩くという、何だか電車ごっこ的な様相だった。
どうにも保護者の後をくっついていく子供のようで、カップルには見えない。

ーーそれでも、少しは琴子に歩幅を合わせてくれているようだ。昔と比べると大きな進歩である。

「……あ、ちょっと………」

琴子の手から直樹のシャツの裾が離れた。

琴子のサンダルの編み紐がほどけたのだ。紐につまづきそうになり、琴子はしゃがんで紐を結び直す。

紐を結び終えて、ふっと視線をあげると直樹の姿が見えない。

え………?
置いてかれちゃった……?

屈んでいる自分を避けて歩いていく人波の中で、直樹の背中は何処にもなかった。


「………なんだ、やっぱりカップルじゃなかったんだ」

「……だよねー……あの組み合わせ、有り得ない……」

何処からか声がした。

どきっとして、周りを見回す。
周囲を見ても、自分を見て小馬鹿にして笑っている女たちの姿は何処にもなかった。

被害妄想による幻聴なのか、ただの会話を自分が云われたように思い込んでしまっただけなのかーー。
それとも、本当に誰かが自分を直樹の隣には合わないと揶揄しているのか……行き交う人々、みな、すれ違い様に、直樹と琴子のことをそんな風に見て笑っていたのか………

何だか急にひどい不安感に襲われた。
そんなのいつものことなのに、今日は何だかズキッとこたえる。

くらくらする。
立ち上がりたいのに、立つことが出来ない。

どうして入江くんは手を繋いでくれないのだろう?
どうして入江くんは並んで歩いてくれないのだろう?
どうしてーー今、あたしはここに一人でいるのだろう?




前にもこんなことがあったっけ。
奇妙な既視感。

入江くんに置いてきぼり食わされて……ポツンとたった一人で街の中で佇んでいた、高校生のあたしーー。

琴子は数年前、まだ同居し始めたばかりの頃の自分に想いを馳せた。
あの時も無理矢理くっついて行って、そして置いていかれたのだ。
あの頃は明らかに直樹は自分のことを苦手に思っていたから、まあ仕方ないと思える。

でも、今は?

結婚してまだ一年も経っていない。
世間的にみれば甘ーいラブラブな新婚さんの筈だ。

寝室は共に過ごしているから、夜限定で甘ーい時もあるにはあるけれど、それ以外の日常で、甘い時間ってあっただろうか? 同居していた時とほぼ変わらない淡々とした日々。

奥さんなのに。プロポーズしてくれたのは入江くんの方なのに。
こんなに簡単に置いていかれてしまう、あたしって、何?
そして、周りから夫婦どころがカップルにさえ見てもらえない。

結局、あの頃と入江くんの気持ちってたいして変わってないってこと?
やっぱりあたしばっかりが好きで、あたしばっかりが入江くんのこと追っかけ続けるの?

自分の存在って何だろう?
入江くんにとって、あたしの位置って何処にあるの? 突然居なくなっても歯牙にもかけない存在なの?

そんなことをぐだぐた考えるとひどく切なくなってきて。
琴子は世界でたった一人でそこにしゃがみこんでいるような気分になっていた。

雑踏の中、琴子を避けて通りすぎる人の形が、みんな無色透明のゆらゆらとしたかげろうのように見える。

舗道からの照り返しが琴子の身体に纏いついてがんじがらめになっているよう。

暑い。
暑くて、苦しくて、切なくて。
ーー立ち上がれない。



「おいーー何やってるんた!」

突然、自分の上に大きな影が覆い被さる。
見上げても、逆光で顔は見えないーーでも。

「い……入江くん……?」

「立てないのか?」

すっと手が差し出される。
その手に掴まると、身体を支えるように抱き起こされた。

そのままくらりとふらついて、直樹の胸に寄りかかった。
仄かな体臭は直樹のものだ。

「気分が悪いのか?」

少し心配そうに顔を覗きこみ、額に手を当てた。

「ううん。大丈夫。サンダルの紐を結んでたら、なんだか立ち眩んじゃって。……もう、平気だよ」

直樹が戻ってきて、自分を見つけてくれたことの深い安堵感がじわっと身体中に広がる。

「馬鹿みたいにクソ暑いからな。だから、家に居ろって云ったのに。おまえ、熱中症になったことあっただろうが」

「……え? 」

直樹が執拗に付いてくることを拒否していたのは……もしかして?
今、自分が思い出していた昔のワンシーンを、直樹も思い出していたのだろうか?

炎天下でテニスの練習をしてきたのだ。決して暑さに弱いわけではない。けれど、ビルの狭間のヒートアイランドは運動している時の暑さとはまた別物で。

琴子はちょっと嬉しくなって直樹の顔を見つめた。

「……ったく。突然、気配がなくなるから何処に消えたかと思った。まさか大都会の真ん中で神隠しかよって」

「へへ。ごめんね。あたしも入江くんがあたしのことなんて気にせず置いてっちゃったかと思った」

「置いてったら、迷子になるだろ? コンクリートジャングルで遭難なんて勘弁してくれ」

「ならないよー! ちゃんと帰れるもん」

ぷくっと膨らませた琴子の頬をつんと
つつくと、「 どこかで休むか?」と、提案する。

「え? え? え? 何処でっ!?」

真っ赤な顔をして、キョロキョロと周囲を見回す琴子に、「何、想像してんだよ? 普通にお茶するとこだよ」と、ぷっと吹きだす。

「いや、お望みなら、ちゃんとご休憩出来るとこでもいいが、さすがにこの界隈には見当たらないな」

赤くなっている琴子をにやにやと眺め、腰を支えるように背中から手を回して、ゆっくりと歩いていく。琴子の歩幅に合わせて。

「 おまえが消えた途端、変な女たちが話しかけてくるし。後ろにくっついてるだけでも十分虫除けになるんだから、いきなり消えるな」

「虫除けって………ふん。どうせ、それくらいの立ち位置なんだよね、あたしなんか」

というか、自分の姿が見えなくなった途端に逆ナンって、どんだけ虎視眈々と狙われてるのだろう、とちょっとげんなりしてしまう。

「おまえがいないときはもっと剣呑なオーラ出しまくってるからな。今日はちょっと気を抜き過ぎた」

「へ?」

「勝手に離れるな」

離れたくて離れた訳ではないのだけれど。でも、そんな束縛ちっくな言い方もちょっと嬉しいような………いや、待て。

「……じゃあ、もうちょっとゆっくり歩いてよ」

直樹の横暴な言い様に、ここはきっちり云わないと、と琴子も毅然と申し立てる。

「あたしと入江くんじゃ、足の速さも長さも違うんだもん。もう少しゆっくり歩いて」

琴子の要望に、直樹は少し目を瞠る。
そして、初めて気づいたように「ああ、悪い」そう、素直に謝った。

いつも必死で直樹にくっついてくる琴子。それが当たり前になっていて、実はかなり無理した状態だとは思ってなかったようだ。

「おまえの足が短いの、忘れてた」

「ん、もぉーばかあ! あたしは普通だもん! 入江くんが長すぎるんだよ」

他愛ないお喋りをしながら、何処かカフェでもないかと物色していたが、どの店もかなり混雑していた。
この暑さに、涼を求めてカフェで冷たいものを、と誰もが思うのだろう。

漸く見つけたのは、ビルの隙間にあった、店舗の入り口は一間くらいしかない古びた喫茶店だった。
そう、カフェというにはおこがましい。昭和レトロなうらさびれた喫茶店である。
『氷』の旗がはためいて居なければ、気がつかないほど目立たない、狭くて暗い店だった。

からん、とベルの音とともに中に入るとテーブルが三つ程しかない、本当に狭い店だ。それでも、2つは埋まっているのは、今日が余りに暑いせいだろう。どの店も行列だ。とにかく座れるところなら何処でもいい、という気持ちは分かる。

一つだけ空いてる席に座ると、インベーダーゲームのあるテーブルで、「わー懐かしい!」と琴子が驚いていた。
「子供の頃、見かけた気がする」

「壊れてるよ、それ」

山姥のような無愛想なお婆さんが水を持ってきた。

「この、星座占い機も……なんか、懐かしい……」

100円で占いが出てくるという不思議な球体も、砂糖やら塩やらの横に置いてあった。

「あんまり、こういう喫茶店入ったことないから、おれは初めてみるけど」

直樹も物珍しげに眺めた。

「お母さんが生きてる頃、お店の定休日に、近所の喫茶店連れてってもらったの。こんな感じ。雰囲気似てるかも」

「で、何にする?」

山姥の注文取りに「アイスコーヒー」と、直樹は即答だったが、琴子は薄っぺらい手書きのメニュー表を眺めて悩んでいる。

「かき氷食べたい気もするけど……」

うーん、と琴子は悩んで、ふとレジの横にあるガラス製の冷蔵庫を見た。

「あ、ラムネ………」

昔ながらの瓶のコーラやオレンジジュース、ニッキ水などが収められた駄菓子屋の店舗にあるような冷蔵庫だ。琴子はその中のブルーグリーンのガラス瓶に目を奪われた。

「ラムネ、下さい」




「開け方、分かるかい?」

琴子の目の前にラムネの瓶を置いて、山姥はにやりと笑う。

「えーと……?」

一瞬悩んだ琴子に、直樹が「分かりますよ」と瓶を手に取り、キャップの封を切ると、飲み口部分に付いていた『玉押し』と呼ばれる付属品を外し、その凸部分に飲み口を塞いでいたガラス玉を押しあて、ぐっと掌で押した。ガラス玉がすっと下に落ち、炭酸の泡がガラス玉に張り付く。しゅわっと涼やかな音とともに飲み口に向けて小さな泡が次から次へと立ち上る。

「わーすごい。入江くん、何でも出来るねえ」

「ラムネのガラス玉落としたくらいでそんなに誉められるとはな」

「これ、ビー玉っていうんだよね?」

「 ラムネに入ってるのはエー玉って説もあるな。ラムネに使われる規格にあっているものがA玉で、使用できないB級品のものはビー玉」

「えーそうなの? 入江くんってほんと、物知り!」

「まあ、俗説だが。ビー玉はビードロ玉から来てるって説もあるし」

「ふうん」

琴子は少し泡のおさまったラムネ瓶を口につけ、喉を鳴らす。

「……懐かしい味」

「ただの炭酸飲料だろ?」

「うん、でも……とっても懐かしい。昔、お母さんがよく買ってくれたの。縁日とかで水桶の中に入ってるヤツ」

「ふーん」

「この綺麗なガラス瓶を見ると、思い出しちゃう。あんまりお母さんの記憶って少ないけど」

「……………」

「あ、ごめん。しんみりしちゃうね」

「いや……おまえ、あんまりおふくろさんのこと話さないよな……と、思って」

「はは、あんまり覚えてないからなんだけどね。ほら、あたし馬鹿だから」

へへへっと照れるように笑う。

「でも、何かに釣られてふっと思い出すことがあるの……」

そして、ラムネの瓶を見つめる。

ああ、そうだ。
お父さんとお母さんに手を繋がれて行ったのは、近くの神社の縁日で。
人混みの中迷子になってしまって泣いていた時に、お母さんがラムネを持って捜してくれていたのだ。

ラムネ以外に、わたあめや、りんご飴や焼きとうもろこしの記憶も次から次へと甦る。

「………食いもんばっかじゃねーか」

呆れたような直樹に、「えーと、水風船も買ってもらったかな? 輪投げやったり」慌てて補足する琴子が、ちょっと上目遣いに呟く。

「縁日、行きたいなー。入江くんと」

「……云うと思ったよ」

当然の連鎖的短絡思考だ。

「 おふくろに頼めば?」

「え? そりゃお義母さんと女同士で行くのも悪くはないけれど、あたしはやっぱり入江くんと……」

「おふくろに頼めば、東京中の夏祭りや縁日情報、すぐにリサーチしてくれるだろうってこと。浴衣もきっと新調だな」

「え……それって……?」

直樹は銅製のカップに注がれたアイスコーヒーの最後の一口を飲み終えていた。からん、と氷がぶつかり合う音がした。

琴子が直樹に訊ねようとしたときには、直樹は伝票を持って立ち上がっていた。

「もう、身体は大丈夫だろ? そろそろ行くぞ」

「う、うん」

山姥にきっちりお釣りのないよう払うと、二人で再び、今だ暑さの癒えない都会のジャングルに向かった。

「ほら」

「いいの?」

「ラムネで冷えて手汗かいてないだろ?」

「うん、もー」

そう云いながらも差し出された手に掴まって。
保冷製の強い銅のカップを持っていたせいか、直樹の手も冷たかった。ひんやりして気持ちいい。

よく冷えたコーヒーは、不味くはないけれど、やっぱり琴子のコーヒーの方が……
そう、思ったけれど、店内で言葉にはしなかった。

「ねぇねぇ、入江くん、さっきの話だけど、縁日………」


今度は歩幅を合わせてくれている直樹に、あれこれ話しかける琴子の声は、未だ人通りの激しいざわめきの中に吸い込まれていく。



まだまだ暑い夏は、終わらないーー。






* * *



~200008××






「………あれ、ここ?」

琴子はふっと歩みを止めて、様々なビルやショップが立ち並ぶ一角を見つめた。

「何?」

直樹も同じように歩みを止める。
右手には先程買い求めた品々の入った紙袋を、左手はしっかり琴子の手を握っていた。

「ここって、昔、喫茶店なかったっけ? とっても昭和チックな」

「ああ………」

記憶を辿るように周囲の風景を見回している琴子の手をすっと引き寄せ、舗道の端に寄る。後ろから来る通行人の邪魔になっていた。

「違うお店になっちゃったんだね」

そこはテイクアウトのクレープ屋になっていた。人気があるのかないのか。3人程並んでいる。

「……なんかちょっと寂しいな」

「別にあれから一度も行ったことなかったのに」

「ま、まあね。でも、通りかかる度にいつかまた来たいなって思ってたのよ」

「別に古くさくってそんな居心地のいい場所でもなかったろうが。ラムネだって、探せば何処にでも売ってるし」

ラムネの記憶を思い起こしてのことだろうと思っていた。

「……だって。入江くんとお茶したとこだもん。入江くんと過ごした場所はぜーんぶ大切な思い出なの」

ふふっと幸せそうに笑う琴子を、直樹は愛し気に見つめる。
もう一度手を繋ぎ直してゆっくりと歩き始めた。

時間は夕暮れ時。暑いと言えば暑いが、黄昏色に空が染まり始めた時間の日差しは幾分か和らいで、風も少しそよいでいる。少しは歩かないと、と琴子が云うので、紀子が車で行きましょうというのを断り、涼しくなる時間を待って買い物に出掛けた。

目的地はベビー用品専門の店だったが、必要に駆られて購入したのは、夏の暑さを乗り切る為のマテニティグッズの数々。ひと夏をこの体型で過ごすのはかなりハードだと、お腹が少しずつ大きくなる度に感じていた。

予定日まであと、1ヶ月程。
今もばたばたと蹴りあげてくる。
琴子はふう、と、大切なたからものが暴れているお腹を撫でた。

「張るのか?」

心配そうに直樹が顔を窺う。

「ううん。大丈夫。ちょっと動き出して。すごく元気だよ」

にっこりと笑う琴子は繋いだ手のまま、自分のお腹に直樹の手を導いた。

「ほらね」

「 ほんとだな」

ふふっと微笑み合いながら、ゆったりとまた歩き始める。

「ねえ、入江くん」

「何?」

「あたし………」

「ラムネ、飲みたくなっちゃった?」

「えー? なんでわかるのぉー」

「おまえの短絡思考、わかりやすいからな」

「もー、何よー」

「家の近くのコンビニには置いてあったろ? そこで買ってくか?」

「うん!」

少し膨れかかっていた顔が途端ににこやかな笑顔に変わる。

「おまえ、この間尿糖でてたろ? 飲みすぎるなよ?」

「あれ、検診の朝に、トーストにたっぷりチョコレートクリームかけちゃったんだよね~~」

未だに病院で働いている琴子は妊娠中毒症の数値もぎりぎりのところだ。
来週からようやく産休に入る。

「気を付けろよ」

「わかってるよー」

他愛ない会話をしながらも、二人の手はしっかり繋がれて。
歩幅も同じ。
歩調も同じ。
それは直樹がかなり意図的に琴子を気を遣って、というわけでもなく、この10年の間に自然と身に付いた、『琴子と一緒の時の歩き方』だった。

「おまえ、覚えている? おれが教えた、ラムネのガラス玉はどうやって瓶の中に詰めるかって話……」

「お、覚えてるよ、もちろん! 」

「じゃあ、どうやって………?」

「えーと、えーと、えーと………?」

「大切な思い出、とか言いつつ、話した内容は覚えてないんだ」

くっくっと笑う直樹に、「視覚的記憶なのよ」尤もらしく応える琴子。直樹はさらに吹き出す。
昔と比べて、直樹はかなり笑うようになったと琴子は思う。

入江くんって、爆笑した顔も素敵なのよ。
笑うのは、いつもあたしがしでかしたことに関してだけどさ。

そう思いつつも直樹が楽しそうなのは琴子も嬉しい。
琴子が嬉しそうだと、直樹も優しく見つめてくれる。

くすくすと二人で笑い合いながら、夕暮れに包まれ始めた街の中を歩き始める。

ふたりでいっしょに。
歩幅を合わせて。
歩調を合わせて。
手を繋いで。
ずっとずっと、歩いていこうーー。














※※※※※※※※※※※※※




あっついですねー。
もう、挨拶がわりに出てくるのはその言葉しかない!って感じで( ´△`)

更新が空きがちになってしまうのは、夏休み、というより暑いせいですね。
中々娘がエアコンの効いたリビングから出ていってくれないので、書きづらいったらありゃしない。
いや、書いてますけどね。ぼちぼちと。
ソファの上、すぐ横で娘がゲームやってるのに、母はスマホでえろ(前のお話ね)書きましたよf(^_^)ふっ……


今回の話は、最初はタイトル『進化論』にしようかと思ってました(冗談です)……直樹さんの進化……じゃなくて進歩の歴史、というか(笑)
いやーイタキスってほんと、直樹さんの成長物語ですねっ(^w^)


ネタ元は、先日、娘と旦那と三人で歩いていた時のこと。

結婚前は当然、二人並んで歩いていたと思います。子供が生まれてからも、旦那は子供の速さに合わせてくれていたと。
でも子供が大きくなると、全然気を遣わなくなってきて。自分の速度でさっさっと歩いて行ってしまうわけですよ。まあ、別にいいんですがね。結婚20年にもなると特に並んで歩かなくても気にもしません。今じゃスマホで連絡取り合うから、はぐれても平気です。
けれど、先日娘がさっさと行ってしまう旦那にキレて。
「おとーさん、なんであたしらを置いてっちゃうの? 少しは歩くの合わせてよ!」と怒ったんですねー。おーよく言ったぞ!我が娘。とーちゃん、反省して娘に謝ってました。

で、この話を思いついたという、それだけの話でございます(^w^)



さあて、次こそは………^-^;






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2015年08月02日
  1. 八月はラムネ色(08/02)