直樹、医学部6年、琴子、看護科3年の夏のお話です。








※※※※※※※※※※※※※※※








「……ただいま」


入江くんの帰りを今か今かと待ちわびていたあたしは、キッチンでお義母さんの手伝いをしながら、玄関の気配に耳をすませていた。

「おかえりー」

リビングの窓越しから門扉の辺りに人影が見えた瞬間、あたしは持っていた菜箸を放り出して玄関に突っ走っていた。

「すっげー勢いだな」

少し疲れたような顔をしていた入江くんは、あたしの顔を見た途端にふっと微笑む。

ーー産婦人科実習、お疲れ様ーーそう言おうかどうしようか……少し躊躇っているところに。

「つまみ食いしてたろ? 口の回りになんかついてる」

「ええっ!」

あたしは口の回りを手の甲で拭う。付いていたのはクルミ和えの味噌。

「つまみ食いじゃないよ、味見だよ」

「ふうん」

にやっと何か言いたげに含み笑いをする。

ーーよかった……いつもと変わらない……

いつもの少し意地悪な瞳に、あたしはちょっと安心する。

あたしは入江くんが手を洗いに行くところまで付いていって、横でペラペラと他愛のない話をし続ける。
聞いているんだか、いないんだか、適当に相槌が帰ってくるのもいつものこと。

「あのね、あのね。やっと、夏休みでしょ。入江くんにとっては学生最後の夏休みなわけだし……来年からは旅行なんて絶対無理じゃない? ねーどっか、行きたいなー」

明るく甘えたように云ってみる。ま、答えなんて分かりきってるけどね。

「……何処に行きたいんだ?」

「……え?」

あたしは驚いて入江くんから預かっていたカバンを落としそうになってしまった。
だって、帰ってくる言葉は、「忙しい」「無理」「おまえだって、そんな悠長なこと言ってる場合じゃないだろ?」ーーなんていつものパターンを想像してたから。

「……えーっと……具体的には、まだ……」

「……なんだ、行きたいとこがある訳じゃないんだ」

「二人で行けたら何処でもいいもん」

「また、おふくろの実家でも?」

うっ、それは………

「……うーん、出来れば二人きりになれるところの方が……」

あたしは慌てて補足訂正する。
とりあえず何か話さなきゃ、と振った話題だから特に明確にビジョンがあった訳じゃない。そりゃ、二人で旅行できたら嬉しいけどさ。いっつもそんな妄想はしてるけど、リアルに計画立てて無駄になったら悲しいじゃない。

あたしのしどろもどろの答えに入江くんはふわっと手を頭に置いて、「1、2泊くらいならいいぞ」と笑った。

「えーっうそっ!」

あたしが驚いている間に入江くんは洗面所からさっさと出てリビングに向かってる。

あたしは入江くんがくしゃっと撫でた髪を触りなから、ぼおっとその背中を見ていた。

入江くんが妙に優しい。

ーーうーん、やっぱり、いつもと違う?

変わらないけど、何となく違う。




ーー入江はやっぱりすげぇよ。あんなことあったのに、平然としてるなんて。泣くどころか顔色一つ変えないーーあいつみたいに氷の心を持ってないと、外科医にゃなれないかもな……




晩御飯の時も一見、入江くんはいつもと変わりなく見えた。
ご飯も普通に食べてるし。

あ、でも。

サラダを取り分けてあげた時、間違って入っちゃったきゅうり……全然気にせず食べてる。



「お兄ちゃん、今日で産科実習終わったんでしょ? これでやっと夏休みに入るわね」

お義母さんの振った話題に、あたしの方がドキッとする。

「……夏休みも一般病院でのインターンシップが入ってるけどね」

そ、そうなんだ。やっぱり忙しいんだよね、学生最後の夏休み。

「で、どうなの? 素敵なお産に立ち会えた? 早く我が子も自分で取り上げたいとか思わなかった?」

にこにこ笑って入江くんに問いかけるお義母さん。
あたしの方が妙に緊張してしまう。

だって、だってーー。
入江くんは、今日ーー。

「別に。2週間の実習期間にそうそう、分娩に立ち会えることはないよ。分娩は夜や朝が多いから、陣痛だけ見守って実習生は帰されること多いし。大学病院は普通分娩も少ないしね」

「あら、一度も出産に立ち会ってないの?」

「……帝王切開に一度……」

「まあ、それでも立派な出産よね。普通分娩でも帝王切開でも。お兄ちゃんも、自分の赤ちゃんを自分の手で……」

結婚したての頃よりあまり口にすることのなかったその言葉が、最近お義母さんの口から再び出るようになったのは、先月理美が可愛い赤ちゃんを産んだせいだと思う。本当に可愛くて可愛くて……やっぱり赤ちゃんって、いいなーって思ってしまうわよね。

「おれは産科医になるつもりはねぇから、おれの手で取り上げることはない!」

「あらーわからないわよ。二人で旅に出で、飛行機の中で突然の陣痛、『誰か、お医者さまはーー』『おれは医師です。おれたちの子供はおれが取り上げます』
そして、少ない医療設備で、無事に機上で赤ちゃんは産まれてーーなんてことがあるかもしれないじゃない!」

「何処のドラマの話だ!」

「まあまあ、それよりママ、それ以前に赤ちゃんが出来ないと……あまり琴子ちゃんのプレッシャーになるようなことは」

お義父さんの言葉に、お義母さんがはっとして「ごめんなさいね、琴子ちゃん。私、そんなつもりは……」と申し訳なさ気にあたしに謝る。

「あ、いえいえ大丈夫です」

お義母さんに他意がないことは分かってる。赤ちゃんは欲しいけれど、学生のうちは作るつもりはないという入江くんの想いもちゃんと分かってるから、それについてはあたしたちの間に蟠りはない。

「お兄ちゃんが、産科実習のことあまり話してくれないから」

「そんなこといちいち話すか! 医者には守秘義務ってもんがあるんだ」

他の診療科を回っていた時はそんなに入江くんの実習について興味を示さなかったお義母さんも、産婦人科となると、自分も体験している領域のせいか、妙にあれこれ訊いていた。


そういえば、入江くんの実習が始まる前に、モトちゃんや真里奈にも色々弄られたっけ。



「入江さんが産婦人科って妻としてどうなのよ~~他の女のアレ見ちゃうわけでしょ?」

「別に。入江くん、臓器見るのと変わらないって云ってたし」

昔、まだ看護科に入る前、「入江くんが内診台の前に立つなんてイヤー」などとちょっとした我儘を云ったことがある。
その時、「琴子の以外はただの粘膜。腸や肝臓と変わらない」と、どう返していいのかわからない返事をされたことがあった。

でも、まあ、あたしもその気持ちは、看護科で実習受けるようになってわかったわよ。
おむつ取り替えとか、………の洗浄とか……いちいち恥ずかしがってたり、反応なんてしてられないもの。そりゃ、最初は恥ずかしかったけどね……例えご老人でも……(いえ、ご老人と入江くんと比べたりしないわよ)
剃毛とか尿管カテーテルとか、まだ未経験な世界もあるわけだし……(ふう……)

「うちらだって、夏休み明けたら産婦人科実習あるじゃない」

「やっぱ、啓太、恥ずかしい?」

「な、何が恥ずかしいんだ! そういう発想こそ、不埒だぞ。生命の神秘、聖なる領域だ。あの琴子の友達の時だってあんなに感動したじゃないかっ」

「まあねー」

そうなんだよね。みんな、理美の出産のどたばたを立ち会ったこともあるし、
私自身も産婦人科実習、凄く楽しみにしてた。
命の誕生という人生最大の悦びに携われるなんて、素敵なことだと。
だから一足先に産科実習に入る入江くんが気になって、あたしたちは小児科実習だったのをいいことに、ちょいちょい覗きに行ったりして。
相変わらず妊婦さんにももてまくってたけどさ。患者さん相手に牽制もできないのが歯痒かったりしたけれど。
うん、入江くんが内診台の前に立つのなんて、気にしたりしないのよっ……と自分に言い聞かせてたりしてね。

そして、今日ーー入江くんは無事に産科実習を終えるーー筈だった。






今日の夕方だった。
入江くんと同じ臨床実習のチームのメンバーたちはみんな真っ赤な瞳をして、ショックを堪えていた。女子は泣き腫らしていたし、男子も肩を震わせていたーー。

ーー入江くんは? 入江くんは、どこ?

実習を終えて大学に戻っているだろう時間に、あたしは入江くんのゼミ研を訪れた。もしかしたら一緒に帰れないかな、という微かな期待を込めて。



ーー入江は病院からまだ戻ってないよ。あいつ、下手すりゃ指導医師より冷静だったもんな。突然の大出血にみんなパニクってたのに、あいつだけ落ち着いて、指示まで出してんだ……たかだか見学の学生なのに。


みんながショックを受けるのも無理もなかった。
入江くんたちが担当していた妊婦さんが、今日の実習最後の日に突然破水して運び込まれて。
心臓病を患っていたから、帝王切開の予定だったけれど、手術日は決まってた。実習終わって一週間後の予定日だったから、立ち会えなくて、残念、でも生まれたらみんなで赤ちゃん見に行くよーーなんて話してたらしい。

突然の手術だったけれど、みんな見学することになりーー。
無事に産まれると信じて疑わなかったのに。

手術中の突然の大出血。
赤ちゃんは無事取り上げられたけれど、お母さんは酷いショック症状で結局亡くなられたのだという。

あたしはそれを聞いて、声を失った。
その現場に居合わせてしまった彼らの衝撃を思うと胸が苦しくなった。

ーーこれから、何度もこんな場面に行きあたって、慣れていくのかな……


ぽつりと一人が呟いた。

そんなことに慣れてしまうのは、悲しい。それは多分、あたしたちも同じ。
あたしたちの実習ではまだそんな場面に遭遇したことはないけれど……


でも、それは医学生である入江くんたちも一緒で。解剖実習以外にご遺体に対面したことはまだなかったという話だった。
まだ臨床実習が始まって、一度もリアルな死と向き合ったことのなかった彼らはーー特にここでーー『誕生』という『死』とは真逆なこの場所でーーこんな風に遭遇するなんて思いもしなかったのだろうーーそのショックは想像以上だったと思う。


ーー入江はーーすげぇよ。
ずっと落ち着いていて。どうしたらあんなに冷静でいられるんだ?
前日も検診に来ていて、幸せそうに子供の名前のこと、話してた妊婦さんだぞ……



入江くんは、現場を一番冷静に見ていたということで、教授たちに呼ばれて状況説明を請われているということだった。


あたしも、その話を聞いてから、鉛のように心が重い。
全然会ったことのない見知らぬ妊婦さんだとしても、あまりに悲しくて辛い出来事だ。残された家族たちは今この瞬間、どんな思いでいるのか、考えただけで叫び出しそうになる。

冷静で誰よりも平然としていたという入江くん。


ーー医者になるなら、そうあるべきなんだろうけど。
あいつみたいに、そんなにすぐに割りきれねーよ……

ーーあいつはロボットみたいに感情を押し殺して淡々と医者としての仕事をこなしてくんだろうな……

喘ぐように呟いていた臨床実習のチームメイトたち。


入江くん、入江くん……
入江くんは本当に、割りきっているの?








「はい、コーヒー」

食事のあと、いつものようにざっと新聞に目を通していた入江くんにコーヒーを出す。

「サンキュ」

入江くんはカップを手に取ると、いつものように仄かにたちのぼる薫りを嗅いだ。

「……いつものとちょっと違う?」

「 うん。フレンチコーヒー。豆はいつものだけど、ちょびっとだけ、ブランデー入ってるの。……美味しくない?」

恐る恐る訊いてみる。ほんの1滴2滴なんだけど。

「いや……美味しいよ」

カップに口を付けた入江くんは、こくりと一口飲んでそう云った。

「よかった」

この薫りで少しでも悲しい気持ちが薄れたらーーあたしの思いを知ってか知らずか、入江くんは、いつもよりずっとゆっくりと薫りを堪能しながら、そのコーヒーを味わってくれた。






洗い物やらお風呂やらを済ませた後、あたしたちの部屋に戻ると、入江くんの姿が見えなくてドキッとする。
エアコンのスイッチは入っていて、湯上がりには気持ちいいくらい室内はひんやりしていた。
なのに、入江くんは蒸し暑い外のベランダに出ていて、ぼんやりと煙草を吸っていた。
煙草を吸っている入江くんを見るのは久しぶりだ。
いつ以来?
去年の夏ーーあたしたちの間に気まずい空気が流れ、少しぎくしゃくしていた頃、やっぱりこんな風によくベランダで煙草を吸っていたっけ。
しっかり閉め切った硝子のサッシが、何だかあたしと入江くんを遠くに分け隔てているようで、ひどく切なくて、思い出すといまだに心がぎゅうっと締め付けるられる気がする。

あの時は、この掃き出し窓を開けてベランダに行き、入江くんの隣に立つ勇気はなかった。
拒絶されたらどうしようってそればかり怖がって。

でも、今はーー。


「……入江くん」

あたしは窓を開けてベランダに出る。

むわっとした空気が身体にまとわりついた。
夜も更けたとはいえ、梅雨が空けたばかりの夜気は、じっとりと湿気を含んで蒸し暑い。今夜も熱帯夜かな。

入江くんは振り返らずに、ただ黙って柵に凭れて、空に向かって消えていく紫煙の行方を追っていた。
煙草は吸っているというより、指に挟んでいるだけのようだ。
半分以上が灰になって、ほろりと落ちて風に舞った。
紫煙は星も疎らな都会の夜空にぼんやりと吸い込まれていく。

あたしは入江くんの背中にぎゅっと抱きついた。


「……何?」

抱きついて暫く経ってから、ようやく入江くんが言葉を発した。

「なんでもない。……しばらく、こうしてていい?」

「いいけど。部屋の中の方が涼しいぞ。風呂入ったんだろ? また汗かいちまう」

入江くんは振り返らずに素っ気なく云う。

「いいの。今、熱くなりたい気分。入江くんの背中あったかいし」

我ながらこのくそ暑い真夏に云うセリフじゃないなーと思いつつ。

「じゃあ、めちゃめちゃ熱くしてやろーか?」

顔は見えないけど、今きっと意地悪い顔してるでしょ?

「………いいよ」

あたしはさらにぎゅっと強く抱き締める。入江くんの広くて大きな背中に右頬を押し付けて。
入江くんの体温をしっかり感じとれる。
生きてるって。
あたしたち、ちゃんと生きてる。

「でも、もうちょっとこのままくっついてていい?ーーその煙草、吸い終わるまで」

「いいよ……」

暑苦しい、とか。鬱陶しいとか。いつもなら普通に降ってくる言葉は、今日は何処かに仕舞ってる?

そのかわり背中からは色んな想いが溢れてる。
言葉として発することのない色んな想いが。

ーー入江くんが何も感じないとか。冷たいとか。感情がないとかーー

そんなわけないじゃない。


入江くんが、どんなに、どんなに………




ちゃんとわかっているから。
ちゃんと伝わっているから。

本音を云って、何て云わない。
あたしの前では泣いていいのよ、なんて云わない。

何も云わなくていいから。


今はただぎゅっとその背中を抱き締めていたいだけなのーー。




熱い熱い夜が更けて。
明日、また、いつも通りの朝がやって来るーー。











※※※※※※※※※※※





なんか、どシリアスな話でスミマセン。
最初三人称で書きはじめたら、めっちゃ重くなってきて、長くなりそうになってしまい、途中でスパッと捨てて琴子の一人称に書き変えました。そしたら、なんか、看護科仲間との会話がどんどん下ネタになっていき……うーん、あれ? みたいな(笑)ちょっと違うだろ、と、また書き直し。短い話のワリには迷走してました^-^;

何となく有りがちな話ですが……神戸の一年前の話として、ちょっと書いておきたかったもので。
でも、実はベランダえっちが元々の妄想の発端だったんだけど(えへっ)
一応ここでは自粛ってことで。(だいぶ前に書いたし)

とはいいつつ、この話の流れで(行くのか?1、2泊の旅^-^;)全然別のテイストのお馬鹿なえろ書こうと思ってるんですが……もしかして、次、また限定かもです。(………布団えろ?)


梅雨が空けた途端、猛暑だったり、大雨だったり。皆様、体調には十分気を付けてくださいませ。



2015.07.22 / Top↑
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2015.07.17 / Top↑



「入江、おまえは今日、北高との練習試合行かないのかよ?」

「なんでおれが?」

午後3時半ーーA組教室。
帰りのHRの連絡の後、琴子は渡辺が直樹に話しかけているのを、教壇の上からついつい耳をダンボにして聴いていた。

「だって、テニス部のエースだろ?」

「おれ公式戦しか出ないって約束で入ってるし」

「入江くん行かないなら、あたしも行きたくないんだけど」

松本裕子が鞄に教科書を詰め込みながら少し剥れたように直樹に訴える。

「だいたい授業終わってから他校に行くのって面倒じゃない。そーゆーの土曜か日曜にしてほしいわよね。須藤キャプテンが交渉してきた試合でしょ? ったく、向こうの都合で押しきられたのありありなのよ」

随分鬱積しているようだ。

「松本が行かねーと須藤キャプテンがぐれて、一年たちがむやみやたらに当たられるぞ」

「松本さんが行かないと、女子部は他に強い人いないからすぐに負けちゃうでしょ」

「松本、北高の杉谷と戦いたいって云ってたじゃん」

渡辺と直樹が二人してあれこれとなだめ透かして松本の機嫌回復を試みる。
渡辺は素直に思ったことを口にしているだけだが、直樹の思惑は別なところにあった。
1年生も補欠も全員応援で参加しろと云われているから、今日テニス部員は全員揃って隣町の高校へお出掛けだ。それを分かっていて琴子を部室に誘ったのだ。一人松本に残られては困る。

「……そうなのよ、去年の新人戦で、杉谷さん故障なんてしちゃうから結局対戦出来なくて……」

なんでも中学以来の因縁のライバルらしい。

「せっかくのチャンスじゃん。頑張って。 早くしないと集合時間に間に合わないぜ」

忌々しいくらいにこやかに手を振っている直樹に、微かに顔をしかめて、松本はばたばたと教室を去っていく。

声をかけてくる生徒たちととりとめもない会話をしながらも、直樹たちのやり取りをついぞ聞き入ってる琴子である。

ーーなんか、いいな……クラスメイトって。

絶対割り込めない空気感がそこにあるように思えた。清里では高校生なんて思いもよらなかった直樹が、ちゃんと高校生に見えてくる。

「先生? 聴いてる?」

「 え、あ、ごめん」

琴子に話かけていた生徒がムッとした顔で問いかけた。

「先生、斗南大の国文科なんでしょ? 偏差値どれくらいなんですか?」

「えーと、どれくらいだっけ?」

偏差値など既に覚えていない。そんな3年以上も前のこと。

「何だよ、小早川、おまえ斗南の国文行く気かよ」

「まさか! いくらA組の底辺のおれだってそこまでハードル下げねーぞ」

し、失礼ね! と内心思いつつ「誰か斗南の国文科狙ってるの?」とにこやかに訊いてみる。

「おれの彼女がF組なんだけど……国文くらいしか行けないって云ってたから」

「げーっ小早川、おまえいつの間に彼女なんて! しかもF組?」

「馬鹿、大声出すなよ、佐竹!」

そんな会話をしていたせいか、いつの間にか琴子の回りには生徒が集まってきていた。

お堅いA組といえど恋バナには興味があるらしい。

琴子はちょっと微笑ましく思いながら、話を聴いていた。

「彼女って誰だよ」

「三沢恵梨だよ」

「えーうちの学年一番の巨乳じゃん。馬鹿だけど」

「馬鹿だけど可愛いだろーが」

「でも、F組の女なんて話合わねーだろ?」

「いや、意外とそうでもないぞ。実は吹奏楽部で一緒なんだけど、フルートめっちゃ上手いし。音楽の好みも一緒だし」

「そう! そうなのよ! 頭の良さなんて関係ないの。ようは相性なのよ。趣味や好みや性格が合うかとか、あとはハートなの。そこに愛があるか、なのよ」

琴子が力説を始めた。

「AとかFとかどうでもいいことよ。愛さえあれば乗り越えられる距離なのよ」

4部屋分、50メートルほどの距離だけどね。
誰かが小声で突っ込んだ。

「先生、カレシいるの?」

周りにいた女子が唐突に訊いてきた。

キターー!
絶対訊かれるというこの質問!

「それは、もちろん ……ヒ・ミ・ツ」

指を一本立てて、ふふっと笑ってウィンクしたつもりだが、
「先生、両目つぶってる」と上から声が降ってきた。

「い、い、入江くん!」

「先生、早いとこ職員室に行って明日の授業の指導案を作成しないと行けないんじゃないの?」

「 あ、あーーそうだった!」

教室の時計を仰ぎ見た拍子に、教壇の上のファイルをばさばさと落として、直樹に拾われる。

「どんくせぇ」

「うっ……うるさいわねー」

そう言い返している時、直樹がファイルに何か小さなメモを滑り込ませるのが見えた。

……どきっ。

「じゃ、じゃあ、みんなっまた明日!」

妙にぎこちなく、手を振って琴子はそそくさと教室から出ていく。

「……なんか、可愛いよなー琴子先生」

佐竹の呟きに、「まあ、確かに」と渡辺が同調する。ちらりと横目で直樹の様子を窺いながら。
親友の眉間は明らかに皺が寄っている。
そして、微かな冷気が………

「たいした趣味だな、おまえら」

ふっと鼻で笑って、直樹は鞄を持って教室を出ていこうとした。

「なんか彼女、F組でも相当人気らしいぜ。今日の号泣授業が可愛くてかなりインパクトあったらしい」

「ふーん。おまえ、やけに情報通なんだな」

ふっと笑って渡辺を見る直樹の眼に微かに剣呑な光を感じたが、何も云わずに親友が出ていくのを見送った。

「ま、入江は興味ないよな、教生なんて」

佐竹と小早川が肩を竦める。

「当たり前じゃない。入江くんが、あんな頭悪そうな年上女に……」

女子生徒の一人が辛辣な口調で舌打ちする。

「それはどうかな……?」

「なんだよ? 渡辺」

「いや……」

少し楽しそうな笑みを浮かべて、渡辺は親友が出ていった教室の戸口を見ていた。










琴子が職員室に戻って、直樹の差し込んだメモを確認すると、それにはテニス部の部室への行き方を書いた地図だった。
なるほど広大な斗南高校の敷地である。部室に来いと言われた時点で、部室の場所など全く把握はしてなかった。
琴子の方向音痴を十分認知したうえの完璧なフォローである。(おそらく、出会った清里で思い知ることが多々あったと思われる)

第2運動場の北側に立ち並んでいるクラブハウスは、2階建てのアパートのような造りになっていて、8つ程の屋外スポーツクラブの部室となっていた。主に一階が男子部で二階が女子部。更衣室としても使っているので、着替えなどを覗かれないためにだ。
男子テニス部は、A棟の一番左端、一階だった。

ーー来いって……ことよね?

生徒会室で、視聴覚室で、印刷室でーー遠慮なく押し倒されかかった身としては、そんな誰も部員のいないという部室に二人きりなんて、危険極まりないであろうことは予想できた。
印刷室ではかなりヤバイ状況だった。
次にあんなことされたら、確実に流されてしまう。
間違いなく。
あんな風に触れられたら拒否なんて出来ない。

…………………いやーん。

思い出して一人で赤くなる。
まずい。
それはすっごくまずい。
知らなかった時はともかく、今は先生と生徒なんだし!

ああ、でも、でも。

忘れてなかった。
ちゃんと覚えてて、会いたいと思ってくれていた。
会いに来ようともしてくれていた。

そのことが例えようもなく、心を温かくさせてくれる。
思い出すだけで自然に顔がにやけてしまう。

「何、一人で赤くなったりニヤついたり薄気味悪い百面相をしているのよ?」

教室から戻ってきた幹にばしっとバインダーで頭をはたかれた。

「いたーい」

「あんた、部活は行かないの?」

幹に問われ、部活……部室……とすぐに連想して顔が赤くなる。

「また顔、赤いわよ。熱でもあるんじゃない?」

「だ、だ、だ、大丈夫よっ」

焦りつつも、それを誤魔化すように「モトちゃんはどの部に行くの?」と訊ねる。

「アタシ~~? 入江直樹が居るならテニスにしようと思ったけど、居ないならどうでもいいやって感じなのよね。真里奈はNo.2のイケメンがサッカー部にいるからそっちに行くっていってたけど。智子は生物部だそうよ。外に出るのも日焼けしちゃうし、暑苦しいから、いっそ美術部にでも行こうかしら? あたしこれでも芸術的センスはあるのよー」

「そ、そうなんだ」

「で、あんたはどうするの? 部活」

「えーと。清水先生、意外なことに水泳部の顧問してるの。そっちに行ってみようかな……」

最初聴いたとき、余りにもイメージとかけ離れていて驚いた。現国だし、書道部あたりの顧問かと思っていた。
実は自由形で全国三位になったことがあるらしい。確かに完璧なフォームできりっと泳いでいる姿、想像出来なくもない。

「まあー水泳部! それいいわね! 若いぴちぴちした肉体美を拝み放題じゃない。アタシも行こうかな」

斗南のプールは屋内温水プールである。水泳部はインターハイ常連で、OBには全日本の強化選手も輩出している。もっとも、こうしてスポーツで突出しているのは元々スポーツ推薦で入学しているF組の生徒が多い。

「施設も最新だし。高飛び込みも出来るのよね」

さすが私立だねーと感心する。
琴子のいた都立高校は更衣室が薄汚い残念な感じの屋外プールしかなかった。

「今から行く?」

幹の問いかけに、「あ、今日はちょっと……」と、慌てて断る琴子である。

「また、今日も指導案書かなきゃ、だから……」

「そうなの? じゃあ、一人で行ってこようかなー屋内プール」

そう言ってにんまりと妖しい笑顔を見せてから、いそいそと職員室を出ていく幹の背中を見送って、琴子も周りをキョロキョロ見渡して立ち上がった。

ーー入江くん、待ってる……かな?

とりあえず行かないという選択は琴子の中にはない。

会いたいものは会いたいし。

そう、そういう関係じゃなけりゃ、いいのよ。

兎に角、なんとしてでも直樹と話し合って、ここは上手く2週間乗りきりましょうと提案しなくては!
そう、2週間なんてあっという間なんだから。
入江くんにはぐっと我慢してもらって……危険な行動は慎んでもらうよう説得せねば………。

そうよ、だってあたしは先生なんだもん!



琴子は直樹の書いてくれた地図を頼りに、校舎を出るとクラブハウスの方に向かっていった。





『男子テニス部』とプレートの掲げられた部室の扉を開けると、微かに運動部特有の汗臭さを感じた。
室内は意外と整然と片付けられている。
鍵付きの灰色のロッカーと、ラケットやボールなど備品が置かれた棚が壁の殆どを埋めていた。
その部屋の真ん中に革の表面が剥げ落ちた古びた黒いソファがあり、その肘掛けに長い足をのせて横たわっているのはーー。

「入江くん……?」

「おせぇよ」

直樹はソファに寝そべってペーパーバックを読んでいた。
栞を挟んでガラス張りのサイドテーブルの上にその洋書を置く。

入ってきた琴子が入口あたりに突っ立っていると、「ちゃんと鍵閉めろよ」と立ち上がって、すたすた琴子の方に歩いてくると、かちゃりと扉の鍵を締めた。

「あーーダメよっ! 鍵なんてかけちゃ!
疑われるでしょっ」

慌てて琴子が鍵を開ける。

「は? 疑われるって何が?」

また、直樹が鍵をかける。

「こんな密室に、教師と生徒が鍵をかけたまま居たなんて知れたら、それだけで有らぬ噂をたてられてしまうじゃない」

もう1度琴子が鍵を開ける。

「鍵をかけようがかけまいが、この部屋に二人でいることを見られた時点であらぬ噂は立つわけだろ?」

直樹がまた鍵をかける。

「たとえば、ここで二人仲良くトランプをしていたところに、鍵がかかってなかった故に誰かが突然入ってきたとする。トランプをしていただけ、とにっこり笑って答えたって、もう、明日には有らぬ噂が学校中走り回っているよ。なんといってもおまえとおれが二人で居ることが余りにも不自然すぎる」

「そ、そう?」

「おまえがもうこの部屋に入っちゃった時点でアウトなの。だったら、誰にも部屋に入られないように鍵をかけておくべき」

何だか言いくるめられたような気がするが、ちらりと鍵のかかったドアを眺めてから諦めてそのままにしておく。

すると。

「あれ? 今日テニス部みんな居ないんだよね?」

「ああ、確か練習試合って……」

扉の外で誰かが歩いている。その足音も話し声も丸聞こえだった。

「いつも窓、こんなにしっかりカーテン閉めてたっけ?」

「女子が怒るから着替えてる時はカーテン閉めてたと思うけど、普段全開だったような」

「……だよなー。珍しく閉まってる。誰かいたりして………」

「……誰かと誰か……?」

「ぷぷっ……何想像してんだよ」

「……いや、使ってる奴多いって話じゃん……」

だんだん声が遠退いていく。

「……丸聞こえじゃないっ……しかも既に怪しまれてて!」

直樹の耳元に顔を近付けて、琴子が小声で訴える。

「大丈夫、声を押さえれば。鍵さえかけときゃ、絶対入れないわけだし、バレない」

「ダメよっ! 絶対盛り上がったら声でちゃうもん!」

「へぇーー」

意外とちゃんと自分のこと分かってるじゃん、と直樹は琴子をまじまじと見る。

「……で、どこにあるの? トランプ。二人だとやれるの限られちゃうわよね」

「は?」

きょろきょろと棚やら引き出しのあるラックなどを探し始める。

「……誰がトランプをやると……」

「え? さっき言ってなかった?」

「物の例えだ!」

「そ、そうなの? ーーでもいいじゃない。トランプ! あたし、スピード得意なのよ!」

再び探そうと引き出しの中を開けようとする琴子を、背後から抱き締めようと直樹が後ろにたった瞬間ーー

「あーーっ こ、こ、こんなものがっ」

「琴子っ声でかっ」

口を押さえようとした直樹の前に突き出されたものーー

『女教師と生徒! 危ない放課後ーー淫靡なスクールラブパニック』

「何? このDVD……」

差し出されたDVDをため息混じりに受けとると、「須藤先輩のコレクションだよ。男子部の部室なんて何処でもこれくらい転がってる」といって、元のところに戻した。

「……入江くんも観たの?」

「ここで上映会やってたからね」

「観たんだ……」

何故だかガックリしている琴子に、「観たけど何にも感じなかった。他のやつらがあんな演技になんで興奮してんのか意味わかんなかったし」と言って抱きすくめながら、耳元で「琴子にはすぐ欲情するけど」と、囁く。

「え………」

顔をあげた瞬間に唇を塞がれる。

「……う……ん」

直樹の唇と侵入してくる舌の熱さに危うく溺れそうになりながらも、辛うじて顔を背けて理性を呼び戻させる。

「ま、待って……入江くん。ちゃんと話そ」

「やだ。待てない」

「そんなー」

眉尻を下げて至極困った顔をする琴子が可愛くて、思わず鼻の頭にキスをする。

「……何、話すの?」

直樹が話をする気になったことにほっとした琴子は、気が変わらないうちにと焦って話し出す。

「あのね、あのね、あのね! 」

教師が生徒に話す口調じゃねーな、と内心笑いつつ。

「あたしたち、あと2週間は健全に過ごしましょう! お互い、教師と生徒になるなんて知らなかった訳だし、清里でのことは仕方ないと思うのね。でも、今はやっぱりいけないと思うのよ。道徳的に。純真な高校生を大人の色香で惑わしてしまって申し訳ないとは思うけど、ここは一つ入江くんも理性的になって欲しいの」

一気に捲し立てる琴子の台詞に、思わず直樹は吹き出す。

「お、大人の色香……ウケる……何処にあるんだよ、そんなもん」

声を出さないように必死に笑いをこらえているようだが、肩を震わせ笑い噛み殺していた。

「……ない?」

「ないよ、そんなもん」

「 じゃあ、なんでそんなにヤりたいのよー」

「だって、琴子だから」

「へ?」

「琴子が欲しいから」

「///////※●$%#!!!」

あまりなストレートな物言いにずるずるっと床にへたりこんでしまう。

「ちなみにおまえの提案する健全な付き合いってのはどうするの? 2週間、お互い無視しろと?」

「 そ、そうじゃなくて。例えば学校終わった後、家に帰ってからゆっくり電話するとか………」

「却下。おれケータイ持ってないし、持つ気もないし。家の電話だと滅多に電話なんてしないおれが長電話してた日には、おふくろに怪しまれる」

「……そうなの……?」

「おふくろにばれたら一番面倒」

「え? でも、清里で会った時はとっても気さくで優しそうなお母さんで……」

でも、そりゃ5つも年上の教師となんて誰でも反対するよね、と思い直す。

「違う、逆。おふくろ、おまえのこと気に入ってたから。関係がばれたらソッコー結婚することになる」

「ええっ?」

「まあ、おれはまだ1年ちょっとたたないと入籍は出来ないけど。事実婚はさせられるかも。しかも同居確定。それはそれでいいけど、おれとしては嫁を扶養できないうちは結婚する気はないから」

「け、け、け、けっこんっ?」

「おふくろが入ってくるとそうなるってこと。でもまだそーゆーの考える気ないから」

「う、うん。当然よ……まだ高校生なんだし」

「でも……一応いろいろ考えてるから」

「いろいろ?」

「そう、いろいろ」

出来ればその『いろいろ』を具体的に上げて欲しい……そう思っているところに。
突然ふわっと、身体を抱き上げられた。

「えっ?」

抱き抱えられたまま、ぽんっとソファの上に横たえられて。

「ーーということで」

「……へ?」

琴子の上に直樹が覆い被さる。

ーーどういうことでしょう?

「健全な付き合いは無理」

にっこり微笑む。
滅多に見せない極上の笑み。しかもぼうっとなるほど綺麗な顔が、どんどん迫ってきてーー。

重なる。

唇が触れ合って、息が混じりあって。

「大丈夫。おれの理性は十分保たれてる。おまえに声を出させないようにとか」

直樹はポケットから小さな包みを出してテーブルに置く。

「こんな準備も怠りないから、安心しろ」

びっくり眼で口をはぐはぐさせている琴子の顎をしっかりと捉え、唇をもう1度深く塞いで。
直樹の手はゆっくりと琴子の身体をまさぐりはじめていたーー。








※※※※※※※※※※※※



いやーこんなところで止めちゃってごめんなさい!
一応次回は限定のつもりなんですが(^^;



私信
むじかく様! 日曜には後追いコラボで部室えろアップしますっ! とメールで語ってしまいましたが、えろまで行きませんでしたぁーー(T.T)

次、がんばります。
………って、また寸止めだったりして?


いろいろ教室えろのシチュエーションを語りあって楽しかったです。同時には難しいですが、あちらの『秘蜜』とひっそり追っかけコラボしてるかもしれません(^w^)
教室の布石はあれこれ置いてみましたが、どれだけ拾えるでしょうか……^-^;

……しかし……次回限定じゃなかったら、やっぱり部室えろはハードル高かったんだな、と笑って下さいf(^_^)











2015.07.12 / Top↑



後編です。

抜かったのは1997年7月7日は月曜だったということ……図書館もプラネタリウムも休みだよな……と思いつつ、ま、いっか(^^;


※※※※※※※※※※※※※※※※



プラネタリウムの館内に入ると、殆どがさっきの一緒に読み聞かせを聴いていた親子連れだった。
カップルも余りいない。
確かにね。プラネタリウムデートならもう少しドームも大きくて投影設備も最新鋭のところに行くんだろうなーー

あたしは空いている席に座って、ぼんやりと夕暮れの情景を写している天空を見つめる。

そういえば………たった1度だけーー。
入江くんと一緒にプラネタリウムに来たことがあった。
あれはいつ? なんでだっけ?
図書館に来る度に、プラネタリウム行こうよ、と誘ってみたけれど、なかなか投影時間と合わなくて。結局ついでに入ったことは1度もなかった筈。

確かーー冬のプログラムだった。

「あ……試験の前日」

思い出した。
あれは看護科への転科試験の前日だった。



「もう、教科書見るな」

あの試験の三日前くらいから、あたしは相当ボロボロだった。精神的に随分やられちゃってたと思う。
なんといっても医学部看護科だ。本来ならC組以上じゃないと推薦はもらえない。それなのに元F組のあたしが転科しようなんて、しかも、たった1ヶ月しか勉強時間もなかったというーーかなり無茶な状況だった。
でも入江くんは、かつて100番以内に入ったんだから、おれが教えればC組以上の実力を出せる筈、と自信たっぷりに宣言してくれて、あたしはその言葉を信じて頑張った。

でも筆記試験だけでなく、口頭試問や面接もある転科試験の三日前には、緊張が極限状態を越えて、何をやっても不安になっていた。
覚えたことを全部忘れて真っ白になって何も答えられない夢ばかり見て、夜眠ることすら出来なくなってーー。

四六時中テキストを離すことが出来ず、鬼気迫る顔で1日ブツブツ言っているあたしはかなり危なっかしく見えたのだろう。

そして、とうとう前日になっても往生際悪くいつまでも教科書から顔を離さないあたしに、入江くんがそれを奪いとって言ったのだ。

「もう、教科書見るな」と。

そして、「気晴らしに出掛けるぞ」と連れ出してくれたのがここだった。

珍しく入江くんから誘ってくれたのに、あたしは「ダメ、勉強しなきゃ」と半泣きで訴えたっけ。
今思うとなんて勿体ない!
行き先が図書館だと聞いて、ああ気分を変えるために違うとこで勉強するんだと納得して、ここに来たのだった。
そしたら、入江くんが「図書室じゃなくてこっち」ーーと、2階のプラネタリウムに引っ張ってって。


あたしは何でこんなときに?と内心泣きそうになっていた。
いつもは行きたいっていっても連れてってくれたことなかったのに。
今はーー今はーーそれどころじゃないのに。
もし、明日失敗したら、入江くんのお手伝いが出来なくなってしまう。
夢が叶わなくなってしまう。
あたしは怖くて怖くてたまらなくてーー。

なのに。
このプラネタリウムの席に座って、満天の星空を仰いだ途端に、そんな不安や緊張の何もかもが吹っ飛んでしまった。

それは2月だったから、冬の星座がメインだったと思う。
ただ冬に行く前に順番に春、夏、秋とそれぞれの星空に移行していき。
夏の星座で、それはそれは見事に美しい無数の星々、くっきりと鮮明に夜空を流れる天の川を見つめて、何だか涙が出るほど感動してしまってた。
そしてーー降るような星空の下で、気がついたら爆睡していた………のよね。
ほら、ずっと寝不足だったし。
椅子は夜空を眺める為にリクライニング状態だったし。
緊張から解き放たれたあたしは、実に久しぶりに心地よい眠りの国へ旅だってたのよ。
入江くんに鼻を摘ままれて「もう、行くぞ」って起こされるまで、それこそ夢も見ずに寝てしまっていた。
無論、起きたときにはプログラムはすっかり終わっていて、結局あたしは冬の星座は見損ねてしまったわけだけど。
そのうえ周りにはもう誰もいなくて。
外に出るときに、入江くんがスタッフのお姉さんに「すみません、ありがとうございました」と謝っていたのを聞いて、入江くんが上映が終わっても暫くあたしを寝かせてくれていたのだと知り、あたしは真っ赤になってしまった。
そして、その優しさがすごく嬉しくて。
もう、今日は勉強しなくていい。おまえは絶対大丈夫だから、って言われてーーその時はすごく素直にその言葉を受け入れられた。
うん、大丈夫。
入江くんがそう言うなら、絶対大丈夫。
その日の夜は入江くんの腕の中で本当に久しぶりにゆっくり眠れたの。
プラネタリウムで見た銀河の海にたゆたっている気分で。

お陰で翌日、あたしはとってもスッキリした穏やかな気分で試験に臨めたのだ。


入江くんのお陰で無事合格して。
念願のデートも出来て。
晴れて看護科に転科出来て。
色々あったけど、今あたしが看護婦を目指して頑張っていられるのは、入江くんがいつだってあたしの行く道を示してくれているお陰なんだよね。



がやがやと響いていた子供たちの声が、館内の照明が徐々に薄暗くなっていくとともに静かになっていった。
夕暮れの風景から少しずつ暗くなり、東京の星の少ない夜空から、段々と星の数は増えていき、いよいよ何の光の阻害のない無限の星が散らばる宝石箱のような世界が頭上に広がってくる。

穏やかな優しい声が、夏の星座について説明を始めていた。
星の上に分かりやすく星座のラインか引かれる。

天の川を挟んで定番の夏の大三角。これくらいはあたしにも探せる。
白鳥座デネヴにこと座のヴェガ。わし座のアルタイル。
ヴェガとアルタイルは織姫と牽牛のモデルだ。
織姫星がこと座なんて、出来すぎてるわよね。
まさしくあたしたちそのものじゃない。
ああ、切なすぎる。


「ーーこと座のヴェガは、夏の大三角の中でもひときわ明るく輝く青白い星で、『夏の夜の女王星』とか『真夏のダイアモンド』 などとも例えられる美しい星ですーー」

ああ、ほんと、あたしみたいな星。


ぼんやりとそんなことを考えながら(一人って誰も突っ込んでくれないからつまらないわよね)星降る空と、決して肉眼では見ることが出来ないくっきりと夜空を分断する天の川を眺めて、あたしはほんの20分程の癒しの時間を満喫した。

ーーもう一度、入江くんと一緒に来たいな……

結局は、そんなことばかり考えながら。











「琴子ちゃーーん、お兄ちゃんから電話よーーっ」

夜、部屋で課題を済ませていると、一階からお義母さんが大きな声で叫んでいた。

うそっ!

あたしは九州に出掛けているという入江くんから電話があるなんて思いもせずに、さっき神戸のマンションの留守電に向かって、今日プラネタリウムに行ったことなんかを散々語っていたばかりだった。

2階の子機を慌てて取る。

「い、入江くん?」

『琴子。何してた?』

入江くんの低い声が受話器から少しくぐもって聴こえた。この声を聴くだけで胸がきゅんってしてしまう。

「一応……勉強。まあ、課題だけど。国家試験の勉強はなかなか手がつけられなくて……」

『夏休み、来てもあんまり見てやれないぞ』

「わ、わかってるよ……!」

入江くんはとってもとっても忙しい。
6月に訪ねた時に、それは十分思い知った。
お互い学生で、自由に時間がとれて勉強を見てもらえたあの頃とは違うのだと。

「……あたし……もしかして、行かない方がいい?」

つい、恐る恐る訊いてみる。
もしかしたら入江くんはあたしに来てほしくないのだろうか。
ずっとずっと頭の片隅にあったことーーでも怖くて訊けなかったことーー。



そしてーー何だか妙に間が空いて。
それから、盛大にため息がひとつ。

『なんで、そんな風に思うんだ?』

呆れたような入江くんの声が耳に届いた。

「仕事忙しくて……構ってくれないんでしょ? で、あたしは拗ねて怒って、面倒臭いとか思っちゃうんでしょ? 」

『やっぱり、拗ねて怒るんだ』

くっくっと笑い声。

「拗ねないよ! 構ってくれなくても、怒らないよ。仕事とあたしとどっちが大事なの!?なんて、馬鹿なこと、絶対云わない! 入江くんの邪魔なんてしないからーーだから、だから、神戸、行っていい? 入江くんの傍にいたいの!」

『来るな、なんて一言も言った覚えないけど』

「え、じゃあ……」

『待ってるから………早く、やること全部済ませろよ』


ーー涙が。
どっと溢れて来た。

「ひっひっく……ひりえくぅん……」

暫く涙で言葉の出ないあたしが少し落ち着くのを待ってから、『琴子、そっち、今、天気は?』と訊いてきた。

あたしはベランダの方を見て、「雨は止んでる……晴れてるとは言い難いけど」と、答えた。どんよりとした夜空が窓越しに見えた。
そのまま子機を持ってベランダに出る。
雨上がりのせいで、湿気はあるけれど、夜の空気は少しひんやりしていた。
空を見上げてもやはり星は見えない。
尤も東京じゃ晴れていてもたいして星は見えないけれど。

「そっちは見えるの? 雨は降ってないの」

『ああ、わりかし晴れてるかな。さすがに天の川は見えないけど。ヴェガは見えるな』

「こと座のヴェガ?」

『ああ』

あたしは、息せきって入江くんに今日プラネタリウムに行ったことを報告した。

『ああ、あそこね』

入江くんが何かを思い出したように笑う。

「あ、今、前にあたしがぐーすか寝ちゃってたこと思い浮かべたでしょ?」

『わかった?』

「わかるよ、入江くんの考えることくらい! あたしも一人でプラネタリウム見ながら、ずっとあの日入江くんと来た日のこと考えてたんだもん」

『…………琴子』

「何?」

『天の川って、英語では何ていうか知ってるか?』

唐突な入江くんの問いにあたしは一瞬頭の中がフリーズする。

『Milky Wayーー乳白色の道だ』

ミルキーウェイ。

『まあ、元々はギリシャ神話から来てるんだが、女神ヘラの母乳が溢れだして出来た道らしい。アジアの七夕伝説とは違って中々嫉妬と陰謀渦巻いた昼メロチックな伝説だが』

うーん、気になる。何、その話?
けれど入江くんは深く語るつもりはないらしく。

『ーーアジアのように〈川〉と解釈すると、〈隔てるもの〉とか、〈別つもの〉ーーと感じてしまうけれど、英語圏のように〈道〉と解釈すれば、それは〈通じるもの〉〈繋がるもの〉ーーと思えないか?』



繋がるものーー。
繋がってる。
あたしたちは隔てられているんじゃない。
例え離れていても同じ道の上で繋がってるーー。

ああ、またーー。
入江くんってばそんな素敵なことを言うから、ほら、また涙が溢れてしまう。

『琴子ーー。知ってるか? こと座のヴェガは、一万二千年後には北極星になるんだ』

「へ……?」

『地球の歳差運動のせいだけど……まあ説明は省くな。とりあえず一万二千年後にはヴェガは天の北極から1番近い位置に居るんだ。北極星となって地上の指標となる』

「はは……カッコいいね、なんか」

一万二千年後、と云われてもピンと来ないけれど。

『一万二千待たなくても、おまえは十分おれの指標だから』

「え……?」

『昼間は太陽だし、夜はポラリスって……たいした織姫さまだよな』

「……入江くん……酔ってる……もしかして?」

でなければ、入江くんがそんなロマンチックなこと云うなんて!

『まあ、懇親会で少しは飲んだけど。酔うほどじゃないぞ』

「……そ、そう?」

酔った弾みでも嬉しいけれど。

『だから、織姫さまはせっせと機織りの仕事をこなして彦星のところに会いに来てくれ』

「入江くん………」

『おれだって……早く会いたいんだ』


あーん、もう!

「入江くん、入江くん、入江くん! あたしも! あたしも早く会いたい。行くからね? ちゃんとやるべきこと、全部済ませて会いに行くからね!」

『待ってる、琴子』

たとえ酔ってるとしても。
それが入江くんの本当の気持ちなら。
あたしはーーあたしはなんて幸せものなんだろう。




ミルキーウェイ。
乳白色の道が二人を繋いでる。

今、目で見ることは叶わないけれど。きっと遥か雲の上ではミルキーウェイが離れているあたしたちを結んでいてくれる。


東の方向を見ると、雲間から、初めて今日の一番星が見えた。
あの星が今、入江くんも見ているヴェガでありますように。




早く入江くんに会いに行けますように。
あたしはそのきらりと輝く青白い星に、願いを込めたーー。










※※※※※※※※※※※※※


七夕、うち方面は曇りです。
星の欠片も見えません……(-.-)

昨日アップを迷ったのは、実は書き上がってから、先日C様のアップした七夕の素敵なお話と被ってる?って思っちゃったから。『七夕』と『神戸』はもう遠距離の象徴みたいなもんだから仕方ないとして、最後に入江くんと琴子ちゃんが電話で話して琴子ちゃんがじんわり、という構成が似てるかなーと。でもC様お話の二人は本当に原作のまんまの二人で。ちょっとツレナイ入江くんに一途な琴子ちゃん。とっても素敵なお話でした(//∇//)
でも、うちのはちょっとキャラ違っちゃってるから、まーいっかーf(^_^)と開き直りまして。ほんと、何だよっこのあまーいロマンチックな入江くんはっ!って感じですね。ええ、酔ってるんです、多分^-^;

開き直りついでに白状すると、転科試験前日の回想プラネタリウムエピは、実はとある少女漫画をイリコト変換したものです。(イリコト変換というと聞こえはいいがつまりはパクリ^-^;)わかる方いるのでしょうか?もう30年以上前の名作ですが。多田先生とおともだちのくらもち先生の別マ初連載『お●ゃべり●段』。その最終回の名シーン……『線と加南』を『イリコト』に変えて妄想してみました。
もうずっと子供の頃にリアルタイムで雑誌で読んで、コミックを持っていた訳でもないのに、鮮明に覚えているシーンです。不思議ですね、昔読んだ漫画の方がすごく覚えてる。最近読んだのはすぐに前の巻の内容忘れるのに……(歳ですか?……^-^;)

『ミルキーウェイ』。そのタイトルの少女漫画もあったな。りぼんの太刀掛秀子先生。すごく綺麗なカラーと可愛いいキャラが好きでした。実は話はあまり覚えてないけれど(^^;切ない話だったような。

あと、図書館に併設したプラネタリウム。世田谷には立派な区の教育センターに図書館とプラネタリウムがセットになっているようですが、HPじゃイメージわかなくて、うちの市の図書館とちっこいプラネタリウムのイメージです。子供らが小さい時以来行っていないのですが(^.^)


プラネタリウムで天の川を見ることはあってもなかなか肉眼では見れませんよね。うちはかなり田舎ですが、東名やら国道があってかなり明るいので、星はあまり見えないです。
本当にプラネタリウムのようにはっきりとした天の川を見たのは、たった一度。
富士山のてっぺんから。
20年くらい前ですが。
それはそれは見事な満天の星でした。
泣きそうなくらい綺麗で一生忘れないでしょう。朝に見た御来光よりずっと感動しました。
しかも流れ星もすごく流れて。願い事願い放題。あんなにいっぱいの流れ星見たのも最初で最後かも。よくよく考えればお盆の頃でしたから、ペルセウス座流星群の季節でした。
いつか子供たちを連れてもう一度登りたいと思いつつ……多分、もう無理だ……^-^;
今、登る自信は一切ないです(-.-)



さて、一応この話は、神戸の夏休み篇のプロローグ的な感じになります(だから保留にできなかった)
ERで忙殺される入江くん……頭のなかはドリカムが流れてます^-^;
どうなることやら、ですが、お待ちいただければ幸いです(^.^)








2015.07.07 / Top↑


七夕、ギリギリセーフでしょうか? 昨日出来て0時にアップしようと思ってたのに、読み返して、思うところ有って保留にしてしまいました……。
ま、いいやと開き直ってのアップです^-^;
長くなってしまったので二話に分けます。





※※※※※※※※※※※※





「あ、雨」

ぽつりと一滴が空から降ってきて、あたしはぼうっと灰色の空を見上げた。

この分じゃ……織姫と彦星のランデブーは雨天中止になりそうね。
ーー可哀想。
でも、あたしだって入江くんと会えないんだし。

うん、そりゃね。
織姫と彦星の逢瀬のチャンスは1年に1回なわけだけどさ。
あたしは夏休みまで会わないって約束やぶっちゃって、先月会いに行っちゃったし。それにもうすぐ夏休みだし。夏休みには会えるわけだし。ええ、ええ、年1の彼らに比べたら全然マシなわけよ。
そのうえ日本じゃ梅雨で会えない年の方が多いかも……と思うと、かなり可哀想よね。
でもちょっと待って。宇宙なんて天気は関係ないじゃない? 雲の上は晴れてるんだよね?
それに入江くんいわく、本場の中国じゃ旧暦の行事だから、実際は8月なんだって………ってこんなこと言い出したらキリないわよね。
うん、でもきっと雨だって雲の上でランデブー出来るのよ、彼らは!
見えなくったって、天の川は頭上に存在してるんだもん。

あたしは、空を恨めしげに睨み付ける。

あたしだって……入江くんに会いたいのに。


そりゃ……もうすぐ夏休みだけどさ。
待ちに待った夏休みがもうあと2週間程で訪れるというのに。
あたしは昨夜から憂鬱な気分が拭いきれないでいる。
夏休みになったら神戸に行く…そう、休みに入ったら何が何でも誰が止めようともソッコー行くつもりだった。
20日の夏休み初日にしっかりカレンダーに花丸つけてて。
なのに、なのに、25日から、5日間も卒論合宿ゼミがあるなんてーー!
聞いてないわよ!(同じゼミの子からはもう5月には聞いてるといわれたけど……)
モトちゃんからは「あんたが川嶋ゼミなんて選ぶからよ」って言われたけどさ。
だって、川嶋先生は小児看護のスペシャリストじゃない。卒論、そっち方面でやりたかったんだもん。
でもね? スゴい偶然なのよ。
あたし、入江くんが小児外科希望なんて思いもしなかったの。多分外科だとばっかり。知ったのはこの前6月に神戸に行った時。なのに、その時あたしは既に卒論ゼミ、小児科関係を選んでたのよーー!
もう、これはあたしたち夫婦、離れていても繋がってるとしか思えないわよねっ

って、自分の選択を喜んでいたのはゼミが本格的に始動し始める前まで。
川嶋教授は、20年近く現場でナースとして働いてきてから教職についた人らしく、とても厳しいし、求められることも難易度が高かったりする。
卒論の進行ペースも速いし、課題も多い。
既に夏休みにやらなければならない課題が山盛りだし、モトちゃんや真里奈たちとはゼミが違うから手伝ってはもらえない。

幾つかの予定を組み立てていったらどう考えても、夏休み始まってすぐに神戸に行くのは無理で……。
6月に神戸から戻った後、ずっとカウントダウンしていたあたしの気持ちは何処へ行けばいいの?ってくらいテンションが下がってた。
それでも色々足掻いてあれこれ調整して、神戸に行けるのはやっぱり8月に入ってからと諦めて、昨日ようやくそれを入江くんに報告した。
そして受話器の向こうの入江くんは、ただ一言。

「ーーま、しょうがないんじゃない?」

ーーそれだけ?
それだけなの?
もうちょっとがっかりしてよっ
………って思うのはあたしの我儘なのかなぁ?

『……来れないわけじゃないんだし。8月になったら来るんだろ?』

そりゃそうだけどね。
でも、1日でも、1時間でも長く一緒に過ごしたいって思うのはあたしだけ……?

『ちょうど、おれも来週からERに2ヶ月研修に行くことになっているから……忙しさが今以上になるのは目に見えてるんだ。あんまり構ってやれないから……』

……構ってやれないから、丁度良かった?
あたし、もしかして、行ったら邪魔なの?

『ーーあ、それからおれ、明日から3日間九州で学会だから。七夕だから会いにこよーなんて間違っても思うなよ』

まさかのダメ押し。

「お……思わないわよ、そんなこと……!」

思ってた。
実は思ってたのよ、密かに。
この数日間のあたしの妄想全開の計画があっさり打ち砕かれた瞬間だった。

題して『琴子の七夕エクスプレス』。
ほんとに入江くんに一瞬会うためだけのサプライズ計画。
朝、大学に行くって家を出て、新幹線に飛び乗って、神戸に行って、病院に着いて入江くんを見つけてーー見つけたら駆け寄ってキッスして、呆気に取られてる入江くんを尻目に、じゃあねっ!ってあっさりすぐに帰っちゃうって計画。そんでもって、いつもの大学から帰る時間には家に戻ってるってわけ。
……って計画をここ数日、時刻表眺めながら、ニヤニヤ一人で考えてて、どうする? マジ、行っちゃう? なんて気になってたけどーー

まあ、聞いてよかったよね、九州行くってこと。
知らなかったらあたし、神戸で延々入江くん捜してたかも。
でもいいのよ。この計画を妄想している間、あたし、とっても幸せだったから。

でも、九州ってーー!
本来なら普段別れ別れの恋人同士が会える日だってのに!
さらに遠くに引き離されちゃってるわよ? あたしたち!


『じゃあな。明日早いからもう切るぞ』

随分あっさりした入江くんの言葉に追い打ちをかけられたあたし。
ああ、やっぱり。
入江くんはあたしが来ることなんて、あたしが思うほど待ち遠しいわけじゃないんだよね。

ーーそんなことを鬱々と考えていたせいで、昨日からなんだかスッキリしない気分が胸のあたりに居座っている。
楽しみな筈の夏休みが目の前に来ているというのにーー。


ねえ入江くん?
あたし、いいんだよね? 夏休みの間そっちで一緒に暮らしても………
邪魔じゃ、ないんだよね?

晴れない想いを抱えたまま、2限目だけあった講義を受けて、モトちゃんたちと食堂でランチを食べて馬鹿な話を色々してーー少し笑ったらちょっとだけスッキリしてーーそのあと一人でぶらぶらと買い物に出掛けてた。

特にあてはなかったのに、気が付くと入江くんとよく行った場所についつい向かっていた。
入江くんと行った場所って……つまるところ本屋とか図書館。
そりゃね、二人の歴史に燦然と輝く井の頭公園とか映画館デートとかもあるけどさ。
『デート』と称して出掛けたのはその看護科合格祝いデートの1回きりかも。
二人でお出掛けは買い物か、本屋か図書館ーーあ、たまに神田の古書店巡りってのもあったわね。
まるで健全な中学生みたいって笑っちゃう。(中学生は古書店街には行かないか~)
しかも出掛けるという入江くんにあたしが用もないのに慌ててくっついていくってお決まりなパターン。

そして今ーーつい何となく足を向けてしまったのがーーーここ、一緒にお出掛け率1、2位を争う最寄りの図書館だった。

……傘は持っていたのだけれど。ほら、梅雨だし、降水確率50%だったし。
それでも、今さら鞄から折り畳み傘を出すのは少し面倒で。
あたしはぽつりぽつりと降ってきた雨から逃れるように、慌てて目の前の図書館に駆け込んだ。



区立の図書館だけれど、この辺りじゃ一番大きくて蔵書も多くて、入江くんのお気に入りだった場所だ。何より家から割合近い。
とはいえ、大学に入ってからは大学の図書館の利用率の方が断然高くて、昔ほど足繁く通ってた訳じゃないから、少し懐かしいかも。

建物の中に入ると、ぱっと目に入ったのは大きな笹竹。
その横には長机が置いてあって、ペンと短冊が用意されていた。
色とりどりの短冊が既に沢山、笹に括られている。殆どが子供が書いたようで、拙い文字だけれど可愛らしい願い事が、ゆらゆらと揺れていた。
あたしもついついペンを手にとって、短冊に願い事を書く。
もう、うちでも、実習先の病院でも散々書いてきたのだけれど。

『絶対国家試験受かりますように』

『来年は入江くんと七夕を過ごせますように』

願うことは沢山あるけれど、とりあえずその2つに凝縮して短冊を笹に結う。

そう。欲張っちゃいけない。

「入江くんがもっともっとあたしのこと好きになってくれますように」

なーんてね。


あたしは入江くんみたいに本の背表紙を眺めるだけで延々と時間を過ごせるタイプではないので、とりあえず開架図書室に入ったものの、本を眺める訳でもなく、子供たちが絵本を眺めている小上がりの畳スペースに上がり込み、ぼんやりと窓の外を見つめる。
ーー何しにきたんだか。
うん、ただ浸りたかっただけなのよ。
入江くんとの思い出に。

入江くんは難しい学術書を何冊も机に置いて、あたしは漫画を読んでるだけだったけどさ。
お互い全然違うことをしていても、ただ入江くんの傍らにいるだけで幸せだった。そんな穏やかな日々が永遠に続けばいいと思ってた。



「ただいまからキッズスペースで七夕のおはなし会を始めます……」

やけに子供たちや親子連れが集まってきているな、と思ったらどうやら大型絵本や紙芝居を使っての読み聞かせがあるらしい。
あたしは何となくそのまま子供たちと一緒に司書のお姉さんの話す物語を聞き入っていた。


「………というわけで毎年7月7日だけ天帝は織姫と牽牛が出会うことをゆるしました。けれども7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は川を渡ることができません。上弦の月を船にして渡してくれる月の舟人も、手を貸してはくれません。この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれています。催涙雨は織姫と牽牛が流す涙といわれていわれているのです。
ーー今日は残念ながら催涙雨かしら。夜になったら止むといいわね。二人を哀れんだカササギが沢山沢山連なって翼を広げて橋をつくってあげるという伝説もあるのよ。どうか二人が出会えるように、みんなも空を見て祈ってあげてねーー」

お姉さん七夕の2つの物語を聞かせてくれていた。
1つは子供にもわかりやすい織姫と彦星の物語。
もう1つちょっと高学年向けの中国の伝説を元にした織姫と牽牛の説話。

ーーああ、ごめんなさい。やっぱり雨が降ると大変なのね……

あたしはさっきまで、どうせ雲の上では晴れてるんでしょ?などとやさぐれた突っ込みを入れてたことを反省してしまった。


ざわざわと子供たちが散っていく姿を見ながら、あたしもそろそろ帰らないと、と腰を上げる。

図書室の自動ドアを通り抜けた時、丁度さっきまで一緒に読み聞かせを聴いていた子供たちが、今度は楽しそうに2階の方へ向かっていく姿が目についた。

何だろう?

その理由は階段横の掲示板を見てすぐにわかった。
ここの図書館はプラネタリウムを併設していて、今日は『七夕の物語と星座』と題したプログラムを投影するらしい。
雨が降っていても、ここなら織姫と牽牛も再会できるというわけね。

こじんまりとした区のプラネタリウムだから、値段も安く、並んでいる人も少なさそうだ。
あたしは迷うことなくチケットを買ったーー。







※※※※※※※※※※※※

続けて後編アップします。




2015.07.07 / Top↑


4 実習2日目


「相原先生! 授業中に教師が号泣してどうするんですか!」

琴子の初めての授業は、1限目の
2のFにて行われた。
その緊張と緊張と緊張に終始した、生まれて初めての授業を終えたばかりの琴子の上には指導教諭の清水の叱責が降り注がれていた。

「だって……だって……」

琴子の目は真っ赤である。鼻はぐずぐずで、握りしめたハンカチはグショグショだ。

「この『永訣の朝』、反則ですぅ~~! 泣かずして解釈できる筈ないじゃないですかぁ~~」

『永訣の朝』ーー詩人にして、童話作家、宮沢賢治の処女詩集『春と修羅』に収められたその一編の詩は、病床に臥していた妹とし子が天に召された日の朝を詩ったものである。
もう、そのシチュエーションだけで十分琴子の涙を誘ってくれる。

「もう、『あめゆじゅ とてちて けんじゃ』のところで条件反射的に涙が出てきてしまって~~」

再び泣き出す琴子に、清水はため息をついた。

ーー昨日はこの詩の意味もろくにわかっていなかったクセに。

国文学部のくせして宮沢賢治の詩といえば『雨ニモ負ケズ……』くらいしか知らないという呆れた知識だった。
昨日の放課後、指導案を書くために、色々資料を紐解いて、ようやくその内容を知り、そして指導案を書く前に既に涙をポロポロ溢れさせていたのだ。
呆れかえる清水の指導を受けて、なんとか指導案を完成させ、今日初めての授業をするために教壇にたったわけだがーー。


『あめゆじゅ とてちて けんじゃ』

雨雪をとってきてちょうだいーー

「だって、とし子は、死に行く妹に何もしてやれなくて無力感にうちひしがれている兄の為に、最期の仕事として、降ってくる雪を取ってきてって頼むんですよね……
兄は外に飛び出して必死になって欠けたお椀に雪を入れて……兄は妹のために……妹は兄のために……うっうっ……なんて健気で切ない兄妹愛……」

視聴覚資料の中にあった岩手の農家の写真や、プロが読んだ正しい方言イントネーションの朗読テープを聞かせながら、その光景を生徒たちに思い浮かばせていた琴子だったが、妄想力たくましい琴子は、生徒たちにこの情景を読み解かせている間に自分がとっぷりと感情移入してしまい、後半は殆ど授業にならなかったのである。

「………まあ、視聴覚資料を使っての授業はなかなかいいアイディアね。特に読解能力の弱いF組の子達にとっては、かなり解りやすい導入だったと思うわ」

「ほ、本当ですか?」

初めて清水に誉められた。

「他にも資料が欲しいなら図書室も探すといいわ。視聴覚ライブラリーは資料室より充実していると思うから」

「は、はい!」

「次はC組よ。今度は泣かないように」

「…………はい」










「で、C組の授業は何とか持ちこたえたわけね」

さて、恒例のランチタイム。
教生仲間とゆっくり話せるのはこの時間しかない。

「うん、まあね。……泣かずにはすんだの。ただだんだんC組ともなってくるとみんな賢くって。けっこーあれこれ突っ込まれちゃって……」

お弁当をつつきながら若干凹み気味の琴子である。

「あんたA組の授業はもっと怖いわよー多分」

意地悪く笑う真里奈に「うっ………」と、机に突っ伏す。

午後1の授業がA組である。

「A組はもう大分先に進んでて導入部は終わってるから、視聴覚資料も使えないし。もう、淡々と進めてくしかないみたいで」

ドキドキする。
A組相手に授業をするのも、直樹に会うのも。

「そういえば………昨日何時までやってたの? 指導案作り」

幹が訊ねた。

「えっと……結局10時は過ぎてたかも」

「わー初日から頑張ったわね」

「お前、そんな遅い時間に一人で帰ったのか? 大丈夫か? 俺も残ってやろうか?」

啓太の言葉に慌てて、「大丈夫! 昨日は清水先生に車で駅まで送ってもらったの。遅くなるときは清水先生も一緒だし」と、きっちりお断りする。

「 はあ……でも先生ってやっぱハードワークだよね」

「そうだね。昨日もあたしたちより遅い先生何人もいたもの」

「アタシの指導教諭なんて、五時過ぎたらいつの間にか消えてたわよ」

「ガッキーね。あたし、誘われちゃったわよ」

真里奈の言葉に、琴子は慌てて、「ダメよ、絶対誘いにのっちゃ!」と訴える。

「乗らないわよー教師なんてもう、対象外」

「あんた、自分の指導教諭にも言い寄られてたわね」

「船津? さらにナイナイ」

「うちの指導教諭も有り得ないんですけど」

智子の参入に、「あの、爬虫類?」と琴子は思わず声を出してしまう。

「何だか格好いい男の子にばかり丁寧に指導してるようで……気持ち悪くって」

「そ、そっち系?」

「やたら2Aの入江くんの話題を振ってきて。授業でもすぐ生徒を入江くんと比較するようなこと言うんです」

「わーそれ、教師としてもどうなのかなー?」

「大丈夫かしら、あたしたち……」

「……とりあえず、単位さえもらえればいいんだけどね」

「おまえら、そんな単位のためだけなんて、なんて言い草だっ! 時間を割いてくれる先生や生徒に申し訳ないと思わないのか!」

「啓太! 暑苦しい!」

そんな風にみんなと和気藹々と過ごしていると、午後からのことを考えずにすんで少し一心地ついた。

すると。

コンコン、とノックの音が。

ここは教生の食事場所としてお昼だけ使用を許可されている応接室である。
誰だろうとみんなが振り返った時、がちゃりと扉が開いてーー。

「相原先生いますか?」

直樹だった。

「きゃー入江直樹?」

「わっ、噂に違わずイケメン!」

「ねえねえ、なんで昨日テニス部来なかったの? アタシ部活テニス担当しようと思ってるのよ」

がしっと直樹に飛びつかんばかりの勢いで幹がその手をとった。

軽く払い除けながら「おれ、部活は試合しか出ないんで」と、にっこり笑う。

「きゃー、クール」

「い、入江くん、何?」

琴子が戸惑いつつも立ち上がると、直樹は琴子の手をぱっと掴む。そして、
「5限目の現国の準備、手伝うように云われてますので」とぐいぐい引っ張って行く。

「え? え? え?」

みんな何事かと目を丸くしている間に、琴子は連れ去られていってしまった。





「な、何? 授業の準備って……特に頼んだことなかったと思うけど……」

応接室から手を引かれて廊下を引っ張られている琴子は、思わず直樹に問い掛ける。

「あれ? なかったっけ? 例えば資料を印刷するとか」

「……あるけど、それは昨日のうちに……」

昨夜、清水に印刷機の使い方を教えてもらって必要なプリントは全て準備してある。

なのに、職員室の近くの印刷室の扉を開けて、引っ張り込まれた。
そして鍵をかける。

印刷室は四畳くらいの狭い倉庫のような部屋だ。
形状はコピー機と変わらないデジタル印刷機が隅に置かれてある。
職員室には普通のコピー機も置いてあるが、何十枚も印刷する場合は昔の謄写版をデジタル化した印刷機の方が高速で安価なのである。
その印刷機がどんと鎮座しているだけで、あとは何やらファイルが沢山詰め込まれた棚が殆どの壁を覆っていた。空いたスペースは電気ストーブとか置かれほぼ物置きのようだ。
とにかくここは狭い。押し倒されるスペースはない、と内心ほっとする琴子である。
というか、引き戸にはガラス窓がついているから、廊下から狭い室内は丸見えだ。ここなら何も出来ないだろう。

「何、安心してんの?」

ーーすっかり見抜かれている。

「こんなとこにも、ちゃんと死角ってあるんだよね」

引き戸の横に棚があり、その棚の横に丁度人が一人くらい入り込めるスペースがあった。その空間の壁に押し付けられる。

「ここなら棚が死角になって、廊下からは見えない」

「い、入江くんっ」

背中にあたっている壁が妙にひんやりする。窓がなく日の入らない部屋のせいだろうか。
そんなことを思っている隙に唇が重なる。
直樹の身体が密着して、壁にきつく押し付けられ、少し苦しい。
押し退けようともがいてもびくとも動かない。
抗う手を簡単に掴まれて壁に縫い付けられた。
キスはどんどん激しくなり、絡めとられる舌の感覚に酔いしれて、琴子の身体もどんどん弛緩していく。
掴まれた手が解かれると、そのまましがみつくように直樹の背中に廻っていく。
直樹の手は琴子の胸の辺りをさまよいはじめた。
ブラウスの釦の上から3つをあっという間に外すと、そのまま手が差し込まれた。

「……ダメ……って、云ってるでしょ?」

唇が僅かに離れた瞬間に、懸命に言葉を紡ぐ。

直樹の手はブラの中に入り込んで、琴子の小さな胸を直接揉みしだいていた。
胸の頂を指の腹で捏ねられて、「やあ……ん」と小さく喘いだ。

こんなところでーー

職員室のほぼ真ん前の部屋。
大胆にもほどがある。

「昨日……何時まで学校にいた?」

首筋にキスを落としながら直樹が訊ねた。

「え……?」

五感という五感が全て直樹の指先が施す快楽に向けられて、一瞬質問の意味が分からなかった。

「……せっかく待っててやったのに、中々出てこないんだもんなー」

「え? ええー!」

琴子が驚いて、思わず身をよじった。

「待ってたって、何時まで? あたし、学校出たの10時くらいだよ?」

「ああ、なんだ。あと一時間くらい待っててやればよかったな」

「え? じゃあ9時? ダメだよ、高校生がそんな時間までふらふらしてちゃ」

「ぶっどんな健全な高校生だったんだよ、おまえ」

A組の連中はみんなまだ塾にいる時間だし、F組の連中は友だちと遊び歩いている時間だ。

「高校生の頃は夜はお父さんの店でバイトしてたもん」

クラブやらカラオケやら誘惑はいっぱいあったけど、父一人娘一人で心配させることなど出来なかった。傍にいることが安心を与えているのだと分かっていたから、9時までという約束で父の店を手伝っていたのだ。

「今は手伝ってないのかよ? いっぺん、おれ、店に行ったんだけど。おまえいなかったし」

「えっえっえーー!!いっいつー?」

「5月のゴールデンウィーク明けくらいかな。親父と二人で話がしたくて、おまえの店選んだ。もしかしているかな? と思ったけどいなかったし」

父親と少し進路の話をしたかったのは本当。やんわりと会社は継がないと伝えたがはぐらかされた。
それよりは店に琴子がいるかどうかの方が気になっていたので、特に深い話はしなかった。
そしていつの間にか自分の父と琴子の父が同郷だと分かって意気投合。多分あれから父親は何度も琴子の父の店に行ってる筈だ。接待にも使うと云っていた。

「だいたい、おまえだって、家電の番号教えたのに、全然連絡してこねーし」

「え……あー実はあの時の携帯なくしちゃって……」

「……んなこったろうとは思ったけどさ」

呆れたように琴子の頬を引っ張る。

「え、じゃあ……会いに来ようとしてくれてたの? あたしのこと、忘れてた訳じゃ……」

「忘れるか。こんな面白い顔」

今度は両頬をぎゅっと押し潰して琴子の顔をひょっとこ顔にする。

「……大学にも一度覗きにいったかな? ジロジロ見られたからさっさと帰ったけど」

「うそ………」

「嘘ついてどーする?」

「あたし、てっきり、春休みだけ、遊ばれたのかな……と」

「ひでーな。おれ、そんなに軽いヤツに思われてたんだ」

「だって……だって……!」

涙が唐突に溢れてきた。

その涙を掬うように頬にキスをされる。

「流石にその顔じゃ、授業できないな」

くすっと直樹が笑った。

「え……?」

「トイレで化粧直してこいよ。放課後にまた多分、崩すけど」

「へっ?」

目を真っ赤にしてキョトンとした琴子の、乱れた胸元をばっと開いて、ブラからはみ出ていた胸の果実を一瞬ぱくっと口に含んで強く吸うと「ひゃーん」と叫んだ琴子の鼻を摘まみ、「放課後、テニス部の部室に来いよ」と一言告げて、自分はさっさと部屋から出ていってしまった。

琴子はそのままずるずるっと胸を押さえて床に座りこむ。


「な……な……なんなのよー!」

腰砕けになってしまったが、午後の授業開始まであと10分だと気付き、ブラウスの釦をとめて、軽く身だしなみを整えた後で慌てて職員トイレに駆け込んだ。

口紅はすっかり落ちて、涙の痕がくっきりファンデーションの上に残っている。
もう誰もいない応接室に、放置しておいた鞄を取りに行き、こそっとポーチを取り出して化粧を直した。
そして授業開始5分前。
琴子は大慌てで職員室に教科書やプリントを取りに行って、なんとか午後の授業に間に合うことが出来たのである。


無論ーーA組相手に散々な授業ではあったが。
そして琴子を翻弄しまくった張本人は何食わぬ顔をして授業を聴いているのが、妙に小面憎い。

ちょうどA組は『永訣の朝』の単元が今日終わるところで、最後の感想文を書かせるだけだった。
書かせている間は颯爽と机間巡回を、と思っていたのについ直樹の横をすり抜けるのを躊躇ってしまう。
なのでその列を避けていたら、次から次へと生徒から質問を受ける。
どれもコアな質問で、琴子はしどろもどろになってしまっていた。
特に松本裕子。
何度も何度もしつこく質問を繰り返す。
琴子が絶対に答えられない、深く難解な質問を。

琴子が答えに窮していると、結局清水が助け船を出してくれた。

凹む琴子に、ふふんと蔑んだ表情を見せる松本裕子。
直樹は相変わらず素知らぬ顔である。

何だかだんだんムカついてきた琴子は、授業の終わりにこの詩を何人かに振り分けて音読させるつもりだったのだが、出席番号関係なく突然「入江くん、ではこの詩を音読して下さい」と指名して、割りと長めのこの詩を最初から最後まで読ませてしまった。
しかし、方言が多用されかなり読みづらいこの詩を、直樹は一度も噛むことなくすらすらと情感込めて読んでいく。
その低音ボイスに琴子を始めとしてクラス全員うっとりしてしまった。

「……読み終わりましたけど?」

教科書をぱたりとおいた直樹の方を見て、琴子は思い付いてふふっと笑い、
「入江くん、とても素敵な音読だったので、ぜひこっちの次回からやる新しい詩の方も読んでください」と、用意したプリントを配布する。

「はあ? まだ読ませる気ですか?」

「えーみんな、聴きたいよね?」

琴子の問いかけに、これにはみんな頷いてしまっていた。

「では、みんなのアンコールにおこたえして、引き続きどうぞ! 中原中也の『汚れっちまった悲しみに』!」

そして、その後直樹は琴子の用意した副教材の詩を三篇も読まされる羽目になってのであったーー。








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別に賢治フェチでも中也フェチでもないので、解釈は相変わらずぐーぐる先生頼みです^-^;詩人ならC様宅の愛のポエマー直樹さんが一番好きですね(^w^)
いや、高校の現国の授業って何やったっけ?と思い出そうとして、この詩と漱石と鴎外などの文豪くらいしか出てこなかった……古典の方がネタ出しやすかったなーと少し後悔……^-^;


あ、『汚れっちまった悲しみに』にはぜひ、CV平川さんで妄想してみて下さい(^w^)

3つ目の部屋を印刷室にしてしまったのは、小学校のPTAで広報委員をやって、PTA新聞作成する為に学校の印刷室に何度か出入りしてたから^-^;高速プリントにおお、はやーっと感動してました。でも10年近く前だから今はもっといいの使ってるかもね。




流石に毎回寸止めだとネタが尽きてくる気もします。さーて、次、どーしよーかなー?

と、いいつつ。多分、次の更新は西暦シリーズ、七夕ネタです……^-^;



2015.07.04 / Top↑