去年のクリスマスに始めたこのお話、密かに1月中には終わりたいと思いつつ、案の定2月までかかってしまいました。でも、なんとかバレンタインまでに終われて良かったです~~f(^^;


元々、思い付いたきっかけは、『お母さんが生きているけど入江くんは沙穂子さんと結婚している世界』、と今の世界どっちがいい? という究極の選択みたいなことを妄想したのが始まりでした。
まあ、結果はお話の通りですが(笑)
結局みんな別の世界、別の人生を過ごしてきた人たちだから、いくらお母さんが生きていてもそこに残りたい理由はなかったですね。

けれど、琴子ちゃんをお母さんと邂逅させてあげれて良かったです。それを終着点に見据えて話をつくっていったので。
ちゃんと温もりのある生身のお母さんと、琴子の本当のお母さん(こっちは生身じゃないけど)、なんとか両方に会わせてあげることが出来てホッとしております。

いやー途中沙穂子さんと入江くんが結婚してるってことで、思いっきり引かれるのではと心配してました。そのうえ、お嬢、あんなに出張ってきて。拍手がいつもより全然少なかったので、これはやっちまったか~~限定とかにすべきだったかな?と不安に陥りましたが、コメント寄せてくれる皆様とコトサホ喜んでくれたm様e様のメールに励まされ、なんとか最後まで乗りきりました。
意外と、沙穂子さんの幸せを皆様応援(?) してくださって良かったです。いやはや、最悪の結婚生活だったからね、それだけで十分制裁に価したのかな?
なんにせよ、入江くんが琴子以外を抱くという妄想ができません。なので、多分うちのブログではたとえ沙穂子さんと結婚してもセックスレス夫婦ですf(^^;

最後はかなり強引な離れ業で(又の名をご都合主義という)大団円にまとめてしまいましたが……f(^^;
とりあえずなんとか収束出来て良かったです(^_^;

このパラレル世界の二人のその後を、というリクエストをいただきましたが……実を云うと、この入江くんか沙穂子さんと結婚する話は、元々書きたかった長編を微妙に筋を変えてリメイクしたもので、(そっちは下関には行きませんが……片瀬氏は出てきます)いつかそっちを書きたいので、このお話のその後は皆様の妄想にお任せいたします。
もっともその話も表で書くのはどーなの?って感じなんで、裏を作るかオール限定で大丈夫なのか、などと模索しつつ構想2年以上( 笑)果たして書けるのか?


パラレルワールドについて。
元々子供の頃からSF好きです。SFジュブナイルという少年少女向け小説(今でいうラノベ?)よく読んでました。多次元宇宙とか次元パトロールとかの発想は完全眉村卓の『謎の転校生』ですね。
筒井康隆の『七瀬ふたたび』というエスパーものの話を子供の頃、NHKの夏休みドラマシリーズかなんかでやってて、スゴくはまりまして。(アンハッピーな結末なんですけどね)ヒロインのテレパスの持ち主七瀬を多岐川裕美さんが、予知能力者の青年を堀内正美さん(日キスの大泉会長さんです……ああ年とられたなーと妙な感慨がありましたわ)が演っていたの、凄く覚えてます。その後何度も映像化されてます。で、その話の中で時間跳躍力を持つ少女が、自分が時間を遡る度に、自分が元いた時点と、遡ってやり直した時点で二つの世界が生まれ、時間を戻る度にパラレルワールドが生まれてしまう、という説明をしてまして。結構それが頭に残っていて、無数に存在する平行世界の話を描いてみました。ま、うちのパラレルは時間旅行で生まれるわけではなく、AかBか迷った瞬間にもうひとつのIF世界が生まれるというかなり、なんだそりゃ?な(^_^;発想ですが。
いえ、表向きはそうですが、実は、『妄想の数だけパラレルワールドは存在する』 ということだったりしますf(^^;
二次作家さんのお話の数だけ、もしくはイタキスト様たちの妄想の数だけ、無数のイタキスパラレルワールドが存在し、そしておそらくほとんど全てがハッピーエンド!
一番書きたかったことを話の最後の色つき三行に込めましたが、実はこの話はこれまでたくさんのイタキスワールドを生み出して下さった素敵な先輩作家様方へのオマージュ……なのかもしれません。(←と、ちょっと、かっこよくまとめてみました笑)




長々と蛇足のようなあとがきで失礼しました(^_^;

インフルエンザが流行り始めているようですね。うちも受験まっただ中の娘がいるので戦々恐々です。下の学年で流行っているようですが、とりあえず受験生たちは気合いで乗りきっているのか? 3年生はまだ無事なようです(^_^;)
皆さま、くれぐれもご自愛下さいませ。



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2016.02.05 / Top↑








「あ……お父さん」

1階のコンシェルジェボックスを離れて、エントランスホールに向かうと、ちょうど重雄が自動ドアのガラスの向こうで玄関に横付けされたタクシーから降りてくるのが見えた。
その後ろで、一人の女性がタクシーから降りようとして車の天井に頭をぶつけて、ホテルのドアマンに駆け寄られていた。

ーーあ、もしかして。

その女性はドアマンにペコペコ頭を下げてよろけながらタクシーを降りたあと、今度は走って重雄に追い付いて、その腕を掴まえていた。

(待ってよ、お父ちゃん)

声は聴こえないが、唇の動きからそんな風に笑いながら話しているのが見てとれた。

自動ドアが開いてホテル内に一歩足を踏み入れた途端に、琴子の方に視線を向けた。
一瞬にしてその姿を捉えたようだった。

「こーとーこーっ!!」

そして、重雄の前に立って、場所柄も全く考えず、大きな声を出して手を大きく振りはじめる。

ーーお母さん………

写真の顔と思うとかなり老けている。当たり前だ。父親より一つ年下の母は生きていればもう還暦を過ぎた年だ。
とはいえ、還暦過ぎにはまるで見えない。40代の紀子とさして変わらないようにも見える。
背も思ったより随分小さくて、遠目なら少女に見えなくもない。

「お母さん……」

ブンブン手を振って、その手が通りすがりの人の頭にあたって、思い切り睨まれ、ペコペコとまた頭を下げる。

へへっと頭をかきながらもすぐに琴子を見て、また大きく手を振る。

「お母さん!」

自然と足が大きく一歩を踏み出していた。
そして、駆け寄る。

お母さん お母さん お母さん!

「琴子……?」

母の胸に子供のように飛び込んだ。

一瞬驚いた顔を見せた悦子は、直ぐにふっと優しく微笑んで、娘の背中に手を回してぎゅっと抱き締める。


「琴子、大丈夫? 何処か痛いとこない?」

背中を擦りながら母は優しく訊いた。
そういえば、琴子がエスカレーターから転落したと聞いてわざわざ秋田から飛んできたのだ。
ついでに重雄から記憶が混乱していて何だか様子がおかしいと聞かされているに違いない。
老いた母親の看病で疲れているのに要らぬ心配をさせてしまったと、少し申し訳なく感じながらも、母の胸の暖かさに暫し浸ってしまう。

忘れていた母の薫り。
化粧や香水の薫りではない。シャンプーや焦げたクッキーや、色んなものが混ぜこぜになったような、不思議な薫りだった。
身長はさほど琴子と変わらなかった。
幼い頃はいつも小さな琴子の背に合わせて、膝をついてかがみこんでぎゅっと抱き締めてくれていた気がする。

おかあさん、ぎゅう、しよー

そう言うと手を大きく広げていつもにこにこして琴子を迎え入れてくれた。
そんな忘れていた記憶が突然ふっと沸き起こった。

鼻の奥がつんとした。
自然と身体が震えて嗚咽が漏れる。
いつの間にか涙が溢れていた。
永遠に会うことはないと思っていたひと。
もう二度とその腕に抱かれることはない筈だった。

「……琴子? どうしたの? あんたがこんな風に抱きついて泣くなんて、中学校の時、お隣の美和ちゃんが引っ越しちゃった時以来じゃない?」

「………………」

優しく髪を撫で付けながら云った母の言葉に一瞬、はっとする。

「……琴子?」

怪訝そうな母の顔。

「お母さん、ごめんね」

「何が?」

「色々心配かけちゃって」

「何いってんの。子供は親に心配かけて成長してくのよ。あんたが無事なら全然大丈夫なんだから」

ふふっと笑って琴子の長い髪をさらりとすきとる。


「琴子さん、そろそろ……」

耳元でノンちゃんの声が聞こえた。

もう時間なのだ。

「お母さん、ごめん、ちょっと部屋に忘れ物。フロントに行かないと」

涙を拭いて、母の顔をまじまじと見つめる。

そっかあ。
あの写真が年を重ねるとこうなるんだ。
年の割りには肌も張りもあって、皺も少ない。でも笑い皺だけはしっかりある。
本当に可愛いおばちゃん、といった感じで優しさと朗らかさが滲み出ている。

自分とそっくりだという悦子。
自分も60過ぎたらこんな感じになるのだろうか。

そんなことを思いながら、離れがたい身体を引き剥がす。

「………じゃあ……お母さん……」

ダメ、変に思われる。
そう思ってもまた涙が溢れてきた。

もう、これで。
今度こそ永遠にーー。

ぎゅっと拳を握りしめ、琴子は母に背を向け、エスカレーターの方へ向かった。

「琴子!」

母が突然声を掛けてきて振り返る。

小さな紙の包みをぽんと放り投げて、琴子は慌ててそれをキャッチした。

「それ! 琴子欲しがってたでしょ? 駅の土産物売り場にあったから買っちゃったの!」

にっこりと笑って母は再び思いっきり手を振った。

何故今このタイミングで渡したのかーー
また後で会うと思っている筈なのに。
一瞬だけ琴子はちらりとそんなことを考えたが、

「琴子さん、早く」

傍らで囁くノンちゃんの言葉に促され、その手のひらに入ってしまう小さな紙の袋をぎゅっと握りしめてエスカレーターに足を掛けた。


「あっちの琴子さん、ちゃんと来るかな」

ノンちゃんが少し心配そうに呟いた。

「ーー来るよ」

琴子は妙に自信ありげに断言した。

「あたしもね。さっきお母さんに抱き締められた時、少しだけこのままずっとお母さんと居たいって思った。
でもねーーやっぱり違うの。
あたしは、お母さんとの小学校の想い出も中学校の想い出も何もないの。あたしにはお母さんと過ごした記憶は何一つないわ。だってあのお母さんに育てられた琴子じゃないもの。きっと、お母さんには一瞬で違うって見破られたような気がする。
だからね。それは向こうに行ってた琴子も同じ。いくら入江くんと結婚してる幸せな人生でも、あの琴子には二人の6年の記憶がなくて、二人の積み重ねてきた生活を知らなくて、それなのにあたしに成り変わって向こうで暮らそうとは思わない筈だよ。ましてや、あっちはお母さんが亡くなってる。そんなの耐えられないと思う。こっちに、ちゃんと琴子を愛してくれてるお母さんがいるのに、向こうに残りたいなんて、きっと思わない」

「……………本当だ」

そうノンちゃんがくすっと笑うと、エスカレーターの上から、もう一人の琴子が降りてきた。
あの日琴子が着ていたワインカラーのスーツに身を包んで、紀子から貰ったミニボストンを持ちーー

そして、その横にはーー

「お母さん………」

それは、写真のままの若々しい母だった。
自分の案内人であるノンちゃんのように、あちらの琴子の案内人として、琴子の傍にぴったりと寄り添っていた。

「お母さん…………」

不思議だった。
自分の背の後ろには年を重ねた母がいて、自分の前には若々しい母がいる。

『 琴子………』

声は耳からではなく、頭の中に直接流れ込んできた。

『………ごめんね』

「え?」

早くに死んじゃってごめんね

寂しい思いさせて、ごめんね

いっぱい愛してるって云ってあげられなくてごめんね

辛いときにぎゅうっと抱き締めてあげられなくてごめんね



優しくて切なくて慈愛に満ちた溢れんばかりの想いが、琴子の中に雪崩れこんできた。


「お母さんっ」

涙が溢れて目の前が霞む。
母の顔をちゃんと見たいのに!

お母さん。

謝らないで。

あたし、大丈夫だったから!

お母さんいなくて寂しかったけど、お父さんがその分愛してくれたから

入江くんちでみんなに優しくしてもらって

入江くんと結婚できて

とても幸せだからーー

だから心配しないでーー




ゆっくりとエスカレーターは母を近付けてくれる。
遠い記憶の母の顔、そして写真で見た頃の母そのままでーー
涙で霞むのを阻止しようと、必死で涙を拭う。

二人の琴子の距離は徐々に縮まり、昨日のように長いエスカレーターの中央で、二人の位置は重なろうとしていた。


手を延ばす。

母に向かって手を延ばし、母も優しい笑みを携えて琴子の方へと手を伸ばした。
けれども無情にもその手は触れあうことなく母の身体を通り抜けていく。
そして、母の横にいた琴子の腕に触れたーー。



そしてーー


光がーー弾けた。


ーー琴子……直樹さんと幸せに………


遠い世界で反響する木霊のように最後の声が届いた。


世界は真っ白な虚無の空間になって、二人を包んでいったーー。





ーー琴子さん。

不思議な感覚。雲の中にいるような、銀河系の渦の中にいるような。
乱反射する白い光の中で、ノンちゃんの声が聴こえた。

ーーありがとう。お陰で、僕もちゃんと生き返ることができるよ。

僕は、こうなる前まで人生なんてどうでもいいと思ってた。
死ぬのが怖くて成功率の低い手術を受けるのを拒んだくせして、生きてたって意味なんてないーーなんて虚勢を張って。
親も友達も一緒に仕事する大人たちも、みんな誰も信用できなくて、自分は孤独だと思い込んでた。
でもね。
生霊となって、次元パトロールとなって、いろいろなパラレルワールドを見て、はじめて生きたいって思ったんだ。

それはね。

どの次元でも、どの世界でもーー必ず琴子さんと直樹さんは結ばれる運命にあってね。
例えば琴子さんが斗南高校を選ばなくて、入学式に一目惚れすることがなくて、地震で家が潰れなくて同居することがなくても、二人は社会人になってからちゃんと出会うし。
例えば直樹さんがT大合格しちゃって別々の大学生活送って、琴子さんちも早々に入江家を出てしまって二人の接点がなくなったとしてもーー
どんなにすれ違っても、必ず二人の道は何処かで交差する運命なんだ。
そして、必ず、琴子さんは直樹さんを好きになるし、直樹さんも琴子さんを愛するようになる。
この何億通りもあるパラレルワールド全ての次元の中で、必ず二人は結ばれるんだ。そんな運命の二人なんて数多ある世界のなかでもそうそうないよ。
二人は世界最強の鋼の強さを持った合成繊維性の赤い糸で、それはそれはもう強固に繋がってるんだ。
そしてね、二人の幸せは彼らの周囲すべてに伝染する。
二人の知り合いはもちろん、その知り合いのまた知り合いまで、ずーっと幸せが伝播して、みんな幸せになっていくんだ。
だからね、僕は、自分が凄く勿体ないなって思ったの。
二人とかかわり合いのないところで、自分だけ幸せじゃなく死んでいくのが。
だって、他の世界の『僕』は、琴子さんや直樹さんと再会して、どの『僕』も生きる希望を見いだして幸せになってるんだ。なのに、僕だけ二人に再会する前に死ぬかもしれない、なんてーーそんなのなんかズルい、とか思っちゃって。
だからーー僕もちゃんと生き返ってやり直したかった。
そう思ってたら神様からチャンスを貰えた。
これでやり直せるよ。

ーーありがとう、琴子さん。

生き返ったら必ず二人の元に行って、二人の幸せを見届けるからーー

絶対に幸せになるからーー

安心してね、琴子さんーー














ーー琴子! 琴子! 琴子!

遠くで声が聞こえた。

ああ……入江くんの声だ。
大好きな低音ヴォイス。
段々近付いてくる。

どうしたの?
何故そんな、切羽つまったような、不安そうな声であたしを呼ぶの?

あたしはーーここだよ。

ここにいるから。



「琴子!」

「う……ん」

瞳を開くと、直樹の顔が超ドアップで目の前にあった。

ああ、やっぱり綺麗な顔だなー
何度見ても飽きない………
ったく、男なのになんでそんな長い睫毛してるのかしら……あたしより絶対長いよー

「入江くん……今日もなんてカッコイイの……」

琴子の呟いた一言に、直樹は一瞬眉を潜めた。

そして、すぐに安心したように大きく息をついた。

「…………ったく、毎度毎度心配させやがって……」

「 え……?」

状況がよく飲み込めず、とりあえず身体を起こそうとするとーー

「いたたたた……」

身体中の節々が痛い。

「ばか、無理して起きるな」

直樹が琴子の背に手を回し、ゆっくりと身体を起こさせる。

「あたし……なんで…? ここ、病院?」

ベッドの周りはぐるりとピンクのカーテンで覆われていて天井以外何も見えない。しかし薬品の匂いと慣れた雰囲気で此処が病院だと一瞬で察した。
バイタルチェックのモニターが横にあるが、電源は入っていなかった。
点滴台は枕元にあるが、これも繋がれていない。
病室にあるようなテレビ台などはなかった。


「ああ、斗南の救急外来の処置室。外傷は全くないから安心しろ」

「お兄ちゃんがエスカレーターから落ちてきた琴子ちゃんをキャッチしたのよーもう、やれば出来るじゃない!」

横で紀子が楽しそうに応じる。

何だか久しぶりに義母の顔を見た気がして、ちょっとほっとした。

「覚えてない? 琴子ちゃん。ホテルのエスカレーターで………」

「ホテル……あ……!」

混濁していた記憶がふいに鮮明な形で蘇る。
不思議な24時間の記憶がーー

「今日は……いつ? 何日? ねえねえ! あたし、入江くんの奥さん?」

ここはーーどっちの世界?

たまらなく不安な気持ちになった。

「おまえ、大丈夫か? 一応CT取って問題なかったし、頭は打ってない筈だが……」

直樹が琴子の真正面に顔を近付けて、顔色をじっくり見たり親指で下瞼の裏をチェックする。

「少し貧血気味くらいだな。クリスマスイブのために無理のあるシフトにしたせいじゃないのか?」

「貧血って……もしかして赤ちゃんとか?」

紀子の顔がパッと輝く。

「それはない」

「そんな、お兄ちゃん、即答しなくても」

「昨日救急で運ばれた時、きちんと調べた。女性が病院にかかるとき、妊娠の有無を確認するのは最優先事項だ」

「もう……クリスマスイブに頑張ったんならもしかしてって可能性もあるんじゃないの~~? 」

紀子がにや~~と笑って直樹を突っつく。

「2日でわかるかっ! 第一、排卵日に当たってないからまず無理!」

「入江くんっ! そんなこと、此処で云わなくても……////////」

顔を真っ赤にして焦る琴子を横目に、直樹が至って真面目に、「とにかく、ふらついたのは貧血のせいだけとは限らないから、精密検査だけはきちっとするぞ」ときっぱりと告げる。

だがとりあえずその言葉で、直樹がちゃんと自分の夫であり、医者をしている元の世界に戻れたのだと心から安堵した。

「………今日は何日?」

琴子が恐る恐る訊ねる。

「12月26日。今は午前10時」

タイムラグはない。
あっちの世界で悦子に会ってからエスカレーターに乗って、それから2時間半くらいの時間だろう。

「で、一体なんだって2日に渡り同じホテル、同じ時間に、同じエスカレーターから転落したのか説明してもらおうか?」

「えーと……」

説明しろと云われても、昨日、もう一人の琴子がこっちの世界でどんな状況で過ごしていたのか分からないので応えようがない。

「………ごめん、ちょっとクリスマスの朝以降の記憶が曖昧で……」

必殺奥の手で誤魔化してみる。

「それで……あたし…昨日、何してた?………なんか、おかしくなかった?」

おずおずと訊ねる琴子に、直樹は怪訝そうに顔を見つめ、「おかしい。CTじゃ何も異常はなかったのに」と、腕を取って脈拍を診る。

「あ………」

腕にはイブの夜に直樹に付けられた情 交の痕があった。

ーーあたしの身体だ………

ふと、この身体か唐突にいとおしくなって、自らをぎゅっと抱き締める。

ほんの数時間前、母に抱き締められた身体とは違うけれど、感触は覚えている。

「琴子……どうした?」

突然自分を抱き締めて涙を潤ませ始めた妻に少し慌てたようだ。

「……昨日から少し情緒不安定なのよ。もう、お兄ちゃんてば琴子ちゃんに何をしたのよ?」

「何もしてねーよ。悪いがおふくろ、少し席外してくれ」

「はいはい、お邪魔虫は退散ね。琴子ちゃんは大丈夫なのよね?」

「ああ、血液検査に問題なければ今日は帰れるだろう。また精密検査に来るかもだが」





「……で、一体何がどうなってるんだ?」

紀子がカーテンの外に出ていった後、もう一度直樹が琴子の両頬を大きな手で包んで、間近でそう問い掛ける。

「やーん、どアップ……」

キスやそれ以上のことが日常の中に溶け込んでいるクセに、自分の顔のすぐ近くに直樹の流麗な容貌があるだけで、心拍数があがってしまう。

「……昨日の朝、エスカレーターから転落したと聞いた時も、どんだけ心配したと思ってんだ。異常はないといいつつもおかしなことばっかり云ってるし」

「……おかしなこと?」

「俺が沙穂子さんと結婚してるとか、秋田にお母さんが帰ってるとか……下関の家がどうとか……真剣に何か記憶障害にでもなったのかと思って焦ったぞ。とりあえず昨日は1日、脳外に、神経内科や精神科心療内科……色んな文献漁ってた。おまえ、部屋に立てこもるかのように出てこないし」

「そ、そうなの……?」

どうやら案内人の母は引きこもり作戦に出たらしい。
下手にこっちの人たちに関わると不審に思われると踏んだのだろう。

「………何となく、おまえじゃないような気がして、そんなこと有り得ないのに変な違和感を覚えた」

直樹はすぐに気がついたのだ。

恐らくはーーあっちの悦子のようにーー一瞬で。

ちょっと嬉しい。
でも、説明に困る。
直樹も感覚的な違和感を、きちんとした医学的論理的な解釈が出来ずに戸惑っていたのだろう。

「色々話して確認したくても、ほんと断固として部屋から出てこねーし」

うん、きっと、琴子もどうすりゃいいかわからなかったんだよね。
こっちの世界では母は死んでると、当の幽霊な母に説明を受けたのだろう。自分以上のパニックだったに違いない。

「今朝になって突然、あのホテルに行くからと飛び出して……追いかけてったらまた、同じエスカレーターの真ん中で突然ひっくり返るし」

「……それで入江くん、受け止めてくれたの?」

「ああ。完璧にキャッチしたつもりだったのに、おまえ意識失って目覚めないし……」

「ありがとうっ」

琴子はがしっと直樹の首にしがみついた。

「入江くんはケガしなかった? 」

「今度はきっちり踏ん張ったから」

「………よかった」

「……それで、おまえ一体……」

「………訊かないで……訊かれても上手く説明出来ないから……それに、あたし、もう大丈夫だし」

「琴子!」

「心配させて、ごめんね? 本当にもう大丈夫だから……」

瞳を潤ませてそう訴える琴子をしばらくじっと見つめた後、軽くため息をつくと、「わかったよ。訊かない」と云ってから抱き寄せた。

「そのかわり2度とこんなことは勘弁してくれ」

「………はい」

引き合うように互いの唇が触れる。
久し振りのキスーーといってもホテルで熱い一夜を過ごした時から1日しか経っていない訳なのだが。

「………昨日のあたしにキスした?」

少しだけ気になることを訊いてみる。

「だから、引きこもってて殆ど会ってないって」

「そっか……」

少し安心する。
自分の身体だけど自分じゃない琴子に直樹がキスするのは何となくイヤだった。

あたしってちっちゃいなー

あっちの琴子の方がずっと辛い思いしてるのに。

でも、多分、あっちの琴子もこの直樹じゃなく、自分の世界の直樹にキスして欲しい筈。

ーー幸せになれるといいなあ……

そんなことを思いながら再び降りてきた直樹のキスを受けているとーー

「入江さん……意識が戻られ……あ、すみませんっ!」

救命のナースがカーテンを引いて中に入ろうとした途端、二人のキスシーンに遭遇して赤面していた。

「………//////!」

琴子も真っ赤になって慌てて離れるが、直樹は全く無表情でしれっとしている。

「えーと、入江先生、血液検査の結果でましたけど。奥さまの様子は……」

検査結果をもらい、それを一瞥した直樹は、「問題はないようですね。状態も安定してますから、担当の岸先生にもこのまま帰ると伝えてください」と平然と告げる。

「は、はい……」

慌ててナースは出ていった。


「な、なんか救命にも変な噂がたちそう……」

琴子がぶつぶつ呟いていると、

「変な噂ってなんだよ」

「入江夫妻はところ構わずキスしてるって」

「事実だからしょーがないだろ?」

イヤ、キスだけではないらしいという噂もーー

にやっと笑ってもう一度琴子の頤を捉えると、軽く唇を啄む。

「あ、入江さん、お荷物こちらにーーあ、ごめんなさいっっ////」

またまたタイミング悪く別のナースが入ってきた。

コントのようにばっと離れて慌てて枕を抱き締める琴子に、ばつが悪そうに、新人らしいナースがカバンなど荷物を渡す。身に付けていたサファイヤリングも外してくれていたようで、差し出されたトレイから取って、改めて左手薬指に嵌め、少し不思議な気持ちでマジマジと見つめる。

「あと、運ばれた時に、ずっとこれを握りしめてたんですけど」

「……え?」

差し出されたのは、小さな紙の小袋。中に何か入っている。

「………どうして、これがーー?」

握りしめていたのはもう一人の琴子の身体。心だけが入れ替わっていたのだから、物質がこちらにくることなどない筈なのに。

紙の包みを開くと、中から出てきたのはーー

「何だ、そりゃーー?」

直樹が覗きこんで眉を潜める。

「なまはげ………」

それは、赤と青の二種類の御守りタイプのストラップだった。御守りには『泣ぐ子はいねがー』というセリフとあまり怖くないなまはげのイラストが描かれていた。

………あたし、こんなの欲しがってたの?

何だか笑えてきてしまう。
それを見つめて、くっくっと肩を震わせて笑う。

笑いながらも涙が溢れてくる。

「……琴子……?」

何故、これだけ次元を越えて手元に残されたのかーー

その理由は全然分からないけれど。

唯一遺された、奇蹟の証のような気がした。

ーーお母さん……ありがとう。あっちの琴子を助けてあげてね……

「入江くん。これ、ペアだからちゃんと入江くんも持っててね」

涙を拭いながら、にっこりと琴子は笑って、封を開けて中から出した青いなまはげストラップを直樹に渡した。

「物凄い御利益ある筈だから! 絶対に大切にしてね」







ひとつ、後日談がある。

家に帰った琴子が自分達の部屋の机の上をふと見ると、置き手紙のようなものが置いてあった。

『本、かります』

自分の筆跡だったが、自分が書いたものではない。

よく見ると看護婦国家試験の参考書が一冊なくなっていた。

看護学生時代のテキストをあれこれ見ていた形跡もある。

借りるってーーどうやって返すつもりだったの?

琴子は思わずくすっと笑ってしまった。

自分のなまはげストラップのように、あっちの琴子は無事本を持って行けたのだろうか。

おそらく。
直樹が医学部に行き直したと聞いて、自分も看護婦を目指したいと密かに思っていたのだろう。昨日引きこもりながら琴子の医療関係の本を見て色々考えていたのかもしれない。自分と同じだから想像がついてしまう。


ーーカンバレ、もう一人の琴子。

あんたは絶対大丈夫だよ。絶対看護婦になれるし、絶対入江くんと結婚できるからーー
お母さんを大切にして、幸せになってね。

心の中で、エールを送り続けていたーー。


そして。
それから数日の間ーーそんな風に時折別の世界の自分を想い、母を想っていたのだけれどーーいつの間にかその記憶はぼんやりと霞んで行き、新しい年を迎える前には、その不思議なクリスマスの24時間の出来事が、琴子だけでなく、直樹や紀子からも消えて去っていった。

ーー多分、修正されるからーー

ノンちゃんの言葉の意味を悟ることもなく、琴子はすっかり別の次元の存在も、母と出会ったことも忘れてしまった。

ただひとつ残されたストラップも、何故それを持っているのか、誰にもらったのか思い出せないまま、それでもずっと大切に持ち続けていた。

それを見ると、心の中にじんわりと温かいものが溢れかえってくるのだ。
懐かしくて、切なくて、とてもいとおしいかけがえのない大切な想いがーー。










* * *


「………ノブヒロ……目を覚ましたのね? 先生! 先生! ノブヒロの意識が戻りました!」

ここは何処だろう?
彼はぼんやりと辺りを見回す。
長い間眠っていたような、あるいはずっと起きていたような。

「ああ、良かった……良かったわ。もうこのまま意識が戻らないのかと……」

どうして泣いているのだろう? 母さん……


どうやら死にかけて助かったらしい。
彼の回りにはばたばたと医師や看護婦が集まり「こりゃ奇跡だ!」などと叫んでいる。

そうか。奇跡なんだ。

何だか長い夢を見ていた気がする。
少しも思い出せないけれど。

ーーただ。

「母さん……」

「え?」

「裕樹、覚えてる?」

「昔、一緒に入院してた?」

「うん。手紙あったよね。探しておいて。連絡取りたくなった……」

「どうして? 突然……?」

「わからない。わからないけどーー」


早くーー会わなくちゃいけないんだ。
ちゃんと見届けるためにーー



全ての人たちを幸せに導く歯車が、きっちり噛み合って、ゆっくり動き出す瞬間をーー見届けるために。





どの世界でもどの次元でも二人は必ず結ばれる。最強にして最高の赤い糸が彼らを繋げているのだからーー










※※※※※※※※※※※※


………終わりです。(突っ込みどころ満載ですが^_^;)

気力があれば、後程あとがきなぞ書くかもしれません……(^_^;

前話分のリコメ、滞っていてすみません。週末くらいにのんびり返信いたしますのでお待ちくださいませ……f(^^;








2016.02.03 / Top↑




『ーー琴子?』

「………もしもし? 」

恐る恐る電話に出た琴子の耳に届いたのは、琴子が知っているのと全く違わぬいつもの直樹の声だった。身体中の骨を伝わって足先まで響くような重低音。でも、それがたまらなく心地がいい。

ーー入江くんっ

1日しか会っていないだけなのに、何だかとっても懐かしい。たとえ、それが自分の夫である直樹とは違う世界の彼だとしても。

『身体、大丈夫なのか? ホテルのエスカレーターから落ちたって聞いたけど』

「う……うん。それは全然大丈夫」

『気を付けろよ。おじさんから聞いた時、血の気が引くかと思った。………まだ酒が残ってたのか?』

心配そうな声。

「お酒のせいじゃ……」

ーーないと思う。
落ちたのは、異世界の自分と会ってしまった時に生じた不可解なエネルギーのせいだ。
あの時すれ違った琴子は、寂しそうだったけれど、酔っていた雰囲気はなかった。

『酔っ払ったお前を置いていったこと気になってた。悪かったな。医学部で教授の論文手伝ってて、実験のトラブルがあったって連絡があってーー』

「よ、酔っ払ったあたしをあの部屋に連れ込んだの?」

ノンちゃんから聞いてはいたが、そもそも直樹は予め部屋を予約していたのだろうかと疑ってしまう。
こっちの直樹はストーカーのように琴子を追っかけてたという。
離婚も成立していないのに、一体どういうつもりなのだろう。
もう、元の世界に戻らねばならないのに、お節介と思いつつ、この直樹に真意を問い糺したくなる。

『 連れ込んだって………人聞きの悪い! だいたい腹へったってゆーから飯食わせてやったら、シャンパン飲みすぎて、吐きそーって真っ青になって呻いてたから、部屋をとってやってんだろうが!』

「わ、わざわざダブルベッドの部屋に?」

『はあ? クリスマスで満室で、急遽キャンセルになったというあの部屋しか空いてなかったんだよ!』

「な、何もしてないわよね? 」

それが一番が気になっていたところだ。ノンちゃんの言うことを信じるなら何もない筈だが。
1時間で部屋から出ていったと云う話だが、1時間あればあっちの直樹なら2回戦くらい十分余裕でいける。
既婚者の直樹とそんな関係になってしまってはあまりに泥沼だ。いくらなんでもこっちの琴子が可哀想すぎる!
その夜の時点ではまだ沙穂子が離婚を決意したことは知らない筈。
きっとひどく困惑して煩悶していたに違いない。

『何にもしてねーよ。ゲロゲロ吐きまくるし、吐瀉物詰まらせないか様子見てただけだ。呼吸も落ち着いて、ぐっすり眠ってから出ていったんだよ』

「………ほ、ホント?」

『眠ってる酔っぱらい襲ってどうする?』

…………向こうの入江くんには何度か襲われたことあるけどね、と内心思いつつ。

『きちんと、ケリつけるまでは何もしねーって誓ったろう』

「そうなの?」

『覚えてねーのかよ』

「あ、う、うん、そうだったね」

とりあえずこっちの直樹もその辺りは琴子の意志を汲んでくれているようでホッとする。

『今日、ちゃんとおまえの親父さんにも挨拶してきたから』

「そ、それ……」

さっき電話で悦子から聞いてはいるが。

『正式に離婚したらおまえと結婚前提に付き合いたいって』

「ちょっと待ってよ、入江くん! それ、きちんと離婚成立してからいおーよ」

それは塩撒かれて当然だと突っ込みたくなる。

『 離婚届は書いて渡してあるものの、彼女は3年間提出しなかった。このまま離婚に応じなかったら調停や裁判になる可能性もあったし、向こうがあれこれ探偵使って調べさせてたのわかっていたから、もしかしたらおまえやおじさんたちを巻き込むこともあるかもしれないと思って。
実直なおじさんが不倫とか許す筈がないから、おまえからは現時点では完璧に拒絶されてるってきちんと説明しとかないと、変に誤解されておまえが勘当されかねないからな。
とにかく一方的におれがおまえを忘れられないから追っかけてて、お前にプロポーズしたのに即効断られたって本当のこと云っといた。
でも、おれは諦めないから。
ちゃんと離婚できて、おまえが了承したら、結婚を前提に付き合わさせて下さいって頭を下げてきた』

ーーおれは諦めないからーーって、いやーん、めっちゃ胸きゅんなんだけどっ

あたしを忘れられなくて追っかけてるなんて、あっちの入江くんにも云われてみたい!

情熱的な告白に少しテンションがあがるが、これは自分が受けるセリフではないことにはたと気がつく。

「入江くん、そのセリフ、もう一度後で……」

『おまえは酔っぱらって覚えてないんだろう? レストランで渡しそびれた指輪をあの部屋でお前に渡したら、箱ごと投げつけられて、額にキズが出来たんだけど』

「……ケガしたの……?」

えっ? と驚いて、恐る恐る訊いてみる。

『たいしたことないよ。かすり傷』

その後、真っ青になって盛大に吐きまくってたから多分覚えてないだろうとは思ったけどな、と苦笑気味な声が響く。

ケガのないことに少し安心したが、指輪を直樹に向けて投げつけたというのには驚いた。もう一人の自分ながら、結構激情型なのかしら、などと思ってしまう。

ーーでも……やっぱり受け取れないよね。

つい数ヵ月前、直樹から初めてバースデイプレゼントを貰ったこととリンクする。
幸せに包まれて直樹からのサファイヤリングを指に嵌めていた自分。
でも、彼女はーー

………結婚してる人から渡されても嬉しいわけないじゃない。

もう一人の琴子の 懊悩 を思うと胸が潰れそうだ。
きっと嬉しかっただろうし、その指輪も嵌めたかったに違いない。
それでも、やっぱり受けとることなんて出来ない筈。

『順番違うだろっておまえにもおじさんにも云われた。確かに焦りすぎてたかも。おまえ、他にいい男がうじゃうじゃいて毎日プロポーズされまくってるとか嘯(うそぶ)くし』

そ、そんなこと云ってたのか、あたし……
いやでも、それ、かなり盛ってるよね?

ノンちゃんに地味な6年間だったと云われていたのを思い出す。

『流石にそれはねーだろうと分かっちゃいたけど、実際、下関の店にいた金之助2号みたいな奴とか、毎日店に通ってくるというどこぞの旅館の若旦那とか、物好きそうな奴がいるにはいるみたいだったし』

………いたのか、そんなキャラたちが……
あらやだ意外ともててたのかしら、あたし?

ふふんっと少し鼻高々になった気がする。

「物好きって失礼ね」

『そうだな。オレが物好きの最たるものかも』

「…………////////」

『おまえが本当にオレのこと忘れたなら諦めるしかないと思ったけど……おまえ、態度でバレバレだし』

「………………」

そりゃ、忘れるわけないだろう。
それは確信できる。
6年前のあの時。
死ぬまで入江くんのことを想って一人で生きていこうと思ったのは、ただ悲しみに酔いしれてた訳ではなかった。まるで予知者のように絶対一生他の人を好きにはなれないとわかっていたからーー。

『……ほっとした。まだおまえがおれのこと忘れてないって分かった時』

ああ、もう、またきゅんきゅんしちゃうじゃない!

でも、ここできゅんきゅんしている場合ではないのだ。
本来なら「自惚れないでよね!」とでも云ってやるべきだろうが、きっともう一人の琴子は散々云ってるに違いない。

ーーバレバレだろうとも。

それでも必死になって、虚勢を張って、直樹から遠ざかろうとしていたのだろう。
生きてきた人生は違えども、同じ自分だから何となくわかってしまう。


「……お父さんに塩撒かれたって……?」

『おまえに二度と近づくなって殴られた』

「な……殴られた? 大丈夫っ?」

『覚悟のうえさ。出来れば沙穂子さんにもきちんと殴ってもらった方がいいとも思ってる。今日にも謝りに行くつもりだから。どんな償いを請求されても受けようと思う。
まだいろんな問題が山積みだけど、全部きちんとしておまえに向き合うから。
気がつくのが遅すぎたけど、おれにはお前が必要なんだ。
ずっと6年間色のない世界にいた。何を見ても何も感じない。何を食べても美味しいと思えない。何を聴いても心に入ってこない。響かない。そんな生活だった。
なのにおまえと九州で再会した瞬間からすべてのものに色が付き始めた。笑ったり怒ったり、感情というものが沸き始めたんだ。そして、やっとわかった。
お前じゃないと駄目なんだ。
おれは、おまえをーー』

「わーっ入江くんっストップ!」

『………琴子?』

「続きは、今から昨日泊まったホテルに来て、あたしに直接云って? 大きなクリスマスツリーのある玄関ロビー、覚えているよね? そこのエスカレーターの下で待ってて! そして多分あたし、また、落っこちるかもだから、きちんと受け止めてねっ」

『は? なんだよ、落っこちるかもって!』

「いいから! 時間がないの! 早く来てね!」

『時間がないって、どういうことだよ』

「そのままよ! それと、ひとつだけ言っていい? 」

『何を?』

「ずっとずっとずーっと昔っからあたしのこと好きだったクセに! 何、間違えてるのよ! ほんっと頭いいクセに馬鹿なんだからーーっ!!」

そういって琴子は電話を無理矢理切った。

「はースッキリした!」

と、云ってから「あ、あたし余計なこと言っちゃったかな?」とすぐに青くなる。

「ま、この24時間の出来事はあまりに介入し過ぎると多少は修正されるみたいだから」

「え? 修正って?」

「よくわからないけど、不思議な天の力が」

空を指差してノンちゃんはにっこりと笑った。


「愛の告白、最後まで聞かなくてよかったの? あっちの直樹さんもあまりそーゆーこと伝えてくれる人じゃないんでしょ?」

「うん、いいの」

あの入江くんの告白をきちんと聞くのはあたしじゃなくて、もう一人の琴子だ。

琴子はそう思って直樹の言葉を遮った。

きちんと琴子に伝えて欲しい。
そして、この世界の琴子も幸せになって欲しい。

ノンちゃんに、『さすが琴子さん、直樹さんに関しては妙に自信あるね』とついさっき云われたが、ちゃんと愛されていると自信が持てたのは、直樹から『好きだよ、琴子』と云われたあの誕生日の夜からかもしれない。
結婚して、妻という肩書きを持っていてさえ、不安になったり自信が持てなかったりしたことは何度もあった。
ましてや、現在他に妻のいる直樹に告白されて、どうしてそれを簡単に受け入れられるというのだろう?

あやふやな立場、曖昧な状況ーー心許ない何もかもが琴子を不安に陥れているに違いない。

たったひとつの言葉だけじゃ足りなすぎる。何度も何度も心からの告白を琴子に浴びせかけて欲しい。
でないときっと彼女は直樹の言葉を受けとめることなんて出来ないからーー




「琴子さん。お母さんももうすぐ、ホテルに着くみたいだよ」

ノンちゃんが少し困ったようにそう告げた。

「え? ホント? 」

やっとお母さんに会えるーー。

琴子は胸の鼓動が少し速くなるのを感じた。

「でも、時間がビミョーだな。あと10分後には元に戻れる『時間』になってしまう。
とにかくそろそろエスカレーターの方に行った方がいい」

「………え? お母さんに会えないかも?」

「うーん、ギリギリかな~~?」

とにかく下へ急ごう。
そう、ノンちゃんに促されて、琴子は鞄を持って立ち上がる。
まだ、眠ったままの沙穂子をちらりと横目で見てから、
「………沙穂子さんも幸せになってね」
そう呟いて部屋から出ていった。

部屋の外に出ると、VIPのSPよろしく、沙穂子の恋人が扉の前で微動だにせず立っていた。

「えーと、ナマセさん?」

「片瀬です」

「ああ、片瀬さん! 沙穂子さんを幸せにしてあげてね」

「………あなたに云われるべくもない。私は幼いころからお嬢様を見て参りましたから。この不幸な結婚を間近で見ていてどんなに辛かったかあなたにはわかるまい。出来れば私は入江直樹を叩きのめしてやりたいと思っていますから」

サングラスをしているから表情はわからない。その上黒いスーツに大きな身体、まるでマフィアの殺し屋さんのようにも見える、仄かな殺気。

「………出来ればお手柔らかに………」

引きつり笑いを浮かべて、思わず直樹の無事を祈る。
いや、多分直樹が負けることはないだろうけど。


「急いで、琴子さん!」と、ノンちゃんに促されてエレベーターに駆け込む。


「とりあえずお嬢さん、直樹さんのこと吹っ切れたみたいでいいんじゃない?」

「うん。あの人、強面だけど、沙穂子さんのこときちんと見てくれて愛してくれるみたいだよね。これからずっと幸せになってくれたらいいなあ」

こっちの琴子にも幸せになって欲しいけれど、それで沙穂子が不幸になるのならきっと心の底から幸せを実感できないのではと思うから。
誰かの不幸の上の幸せなんて、砂上の楼閣のようなもの。

自分の世界でも。
沙穂子があっさり引いてくれたから直樹と結婚できたけれど。
心の奥の片隅では何処か負い目のようなものがずっと澱(おり)となって沈澱していた。そして、それは時折、唐突に浮上する。
何度も直樹の冷たさに挫けそうになったり、愛されているのかさえ自信が持てず不安になった時、これは天罰なのかもしれないと思ったこともあった。

「琴子さんらしいけど」

ノンちゃんが含み笑いをみせた。

「こっちの沙穂子さん、かなりな策士であれこれ罠を張って琴子さんを追い払ったみたいだったけど、きっと、こっちの琴子さんもあっさり彼女のこと許しちゃうんだろうなー」

エレベーターはゆっくりと下降し、一度も扉が開かれることなく1Fロビーに向かっていく。

「沙穂子さんだって、結局6年間苦しんだんだもの」

「ほんと、優しすぎるよ、琴子さん。お人好しとゆーかなんとゆーか………ま、あの二人がどんな夫婦になるのか、ちゃんと幸せになれるのかは、神のみぞ知る……だけど……」

ドアが開いて、エレベーターホールを抜けて、1階エントランスへと向かう。
フロントのある2階までも届く大きなクリスマスツリーも、エスカレーター横にまだ飾られたままだった。
チェックアウトの客もちらほらいて、格調高き高級ホテルのホテルマンたちは荷物やカートを運んできびきびと動いている。

「お客様」

ホテルのコンシェルジュに声を掛けられて、琴子は怪訝そうに振り向いた。

「一昨日、1605室にお泊まりになられていた入江様では……」

「えーと、はい」

「こちら、昨日清掃の際に、お部屋の端に落ちていたのですが、お忘れものでは?」

差し出されたのは、小さなリングケース。

「あ、ありがとうございます………」

そういえば、直樹の顔に投げつけたとか云ってたけど、そのまま放置だったのか、とちょっと驚いてしまう。

「あ……もしかして……」

あのエスカレーターですれ違った時、もう一人の琴子はホテルに向かっていた。朝、一度ホテルを出てまた戻ってきたということだろう。
何のため?

「……やっぱり指輪を探しに……」

プロポーズされ、指輪を投げつけて、でもきっと気になっていて……

琴子はそのリングケースを開けた。

「………これって」

琴子が三ヶ月前の誕生日に貰ったものと全く同じものだった。
海の底のように青く輝くハート・ブリリアンカットのサファイヤリングだ。

懐かしむようにそれを暫く眺めてから、琴子は鞄に入れた。
自分のものではないネイビーのショルダーバッグの中には離婚届と婚約指輪が入っている。

もう一人の琴子が元に戻ってからすぐ気がつきますように。


ーーそう願いながらーー。









※※※※※※※※※※※※※



最後まで突っ走るつもりでしたが長くなりそうなので一旦切ります。

さて、タイムリミットまであと10分。
琴子ちゃんは母に会えるのか?

次回最終話を待て!(笑)……終わる筈です、多分……f(^^;






2016.01.30 / Top↑



「琴子さん、琴子さん…………」

耳元で囁く声は、何処か耳慣れない少しトーンの高い男性の声。声変わりの前の少年ではないけれど、それでも大人の声でもない。

琴子、琴子…………

琴子が知っている声はもっと耳元から身体中駆け巡って子宮にずんっと響くような低音ボイスだ。

耳元で優しく………優しく?


おい、琴子、いつまで寝汚く毛布にしがみついてんだよ!
さっさと起きろ、遅刻するぞっ


そうね。朝優しいことって滅多になかったかも………
デコピンしたり鼻つまんだり、耳引っ張られて怒鳴られたり。

だいたいねぇ、いつもすっきり起きられないのは誰のせいだと思ってるの?

「琴子さん、琴子さん……!」

だから、誰よ? この声は。
あたしを起こしてくれる男の人は世界でただ一人、入江くんしかいないってゆーのに……

ねえ、あたし変な夢見たの。

すごく不思議な夢よ。

ああ、早く入江くんに話さなきゃ。馬鹿なあたしはすぐにどんな夢なのか忘れてしまうもの。


「琴子さん、起きないと、もう元の世界に帰れなくなっちゃうよー」


ええええええーっ !!!!!



その声の主の顔を唐突に思い出して、琴子はぱちっと目を覚ました。


「ノンちゃん!? ーーえっ夢じゃなかったの? っつ……あたたっ」

ばっと起き上がった時に、微かな頭痛と口の渇きを感じた。

「二日酔い? なんで? ここ何処?」

琴子はベッドの横に呆れたように立っているノンちゃんの姿を認めてから、周りをキョロキョロと見回す。

なんだろう、この既視感。
確か昨日の朝もこの場所このベッドの上で目覚めた筈。
昨日のクリスマスの朝は、オンコールで病院に呼び出された直樹の名残を身体にもシーツにも残したまま、一人でこの部屋で朝を迎えた。
今、目の前にノンちゃんがいなかったら、きっとその後の不思議な出来事は奇妙な夢をみただけだと納得できたのに。
そして、ノンちゃん以外にも、夢ではないのだと思わざる得ない人がーー

「沙穂子さんっ」

大きなダブルベッドの端と端で、眠っていたらしい。
琴子の傍らには、すうすうと規則正しい優雅な寝息のお嬢様が、少し身体を横に向けて眠っていた。

「えーと、なんで?」

沙穂子と二人でひとつベッドに眠っているというこの事態に、どんな成り行きでこうなったのかすぐには思い出せない。
ちなみに二人ともきちんと昨日と同じ服を着ている。危ない世界に踏み入れた訳ではないようで、少し安心する。

「覚えてないの?」

「うーん………」

こめかみを押さえて思い出そうと試みる。

「なんかワインをちょっと飲んだような……」

「そうそう。僕、一生懸命止めたんだよ。だからそんなに飲んでない筈なのに、一口二口くらいで結構なハイテンションになってるんだもん」

「なんか、紙飛行機を飛ばしあっこしたような」

「あ、それ覚えてる?」

ベッドの回りに何故か幾つかの紙飛行機が散らばっていた。
ひとつを取ると、どうも調査会社の報告書の書類を折ったようだった。自分の隠し撮り写真が載っている。

「……そうよ、思い出した。何もこんな写真取らなくてもって沙穂子さんに文句いったような」

自分ではないが、この世界の琴子を思うと同情してしまう。

何故ならば、店でコケてお客の頭に皿をぶちまけてる写真とか、階段から落っこちて腰を擦っている写真とか。何故だか変顔していたり。
どうせならもう少しまともな写真を載せてくれればいいものを。


ーー二人の密会写真が撮れるかとずっと張っていたようね。
ほら、カメラマン自体は腕いいみたいじゃない! 可愛く撮れてるわよーほほほっ

そんなことを沙穂子は云いながら、自分で調査書類をバラバラにして、そのA4の紙を使って折り紙を始めたのだ。既にその時点でロマネコンティは空になって、2本目をルームサービスで頼んでいた。

「あー、これ! 調査書類じゃなくて、離婚届だっ」

他のより薄っぺらい紙飛行機を広げると、それはちょっと飛ばしちゃ不味いだろうという代物だった。
離婚届まで紙飛行機にして飛ばしていたようだ。

「覚えてない? 『これ持っていきなさい』って紙飛行機になったそれ渡されて、二人で童心に返ったかのようにきゃっきゃきゃっきゃと飛ばし合ってたの」

「…………なんとなく」

かなりぶっ壊れていたようである。

「とりあえず、それは持っておいた方がいいんじゃない? 元に戻った時、身に付けておけばきっとあっちの琴子が気がつくよ」

変に折り目のついたその紙を丁寧に広げて、必死に手アイロンを掛ける。
直樹の名前と、沙穂子の名前、ともに署名捺印がされていた。

「うん。あー、そういえば思い出した! 沙穂子さん、プロポーズされたって」

お酒のせいか変なテンションで、ほぼガールズトークのノリでそんな会話をしていた気がする。

ーーえーっ誰にっ?

ーーやだぁ、知りたい?

ーー教えて教えてっ

ーーふふふ、実はここにいるのー

ーーええっ?

ーー片瀬、片瀬! こっちにきて~~

ーーえーっそのボディガードさん?

ーーそうなの。素敵でしょ? 元々うちの執事の息子で、祖父の会社の秘書もしてましたの。今は私専任SPですわ!

ーーきゃあ、よかったねーおめでとう!

ーー私、ずっと意地になって、あなたを追っかけていた気がしますの。
自分は再婚しても、あなたと直樹さんが結ばれるのはイヤでした。
片瀬はずっとそんな私をずっと傍で見てくれていたんです。
すっごく嫌な女だった私を見捨てずに。
昨日、あなたと直樹さんがホテルで食事して部屋に入っていったところを見張っていた時に、突然プロポーズされたんです。

ーーええっ何処で?

ーーこのホテルの廊下ですわ

ーー不思議なシチュ………

ーーロマンチックじゃないと仰りたいのね? 虚しくあなたたちを張ってて証拠写真でも撮ろうとしてた私が痛々しかったのでしょうね。そして、私もようやく気がついたのです。身近なところに幸せはあるのだということに。
片瀬からの強引で荒々しいキスに私は憑き物が落ちたように、今までの自分の愚かさを悟りましたの。

ーーええっこのホテルの廊下でキッス!?

ーーもしかしたらそれがファーストキスかも………

ーー沙穂子さん、顔真っ赤よ~! 可愛い~~!

ーーとりあえず離婚後半年は女は再婚できませんものね。下らない民法の規定だわ。だから、さっさとそれ出してといてくださいね。

ーーえーっ沙穂子さん、自分で出せば……?

ーーダメ。あなたが出して! あたしたち偽りの夫婦関係にピリオドを打つのはあなたなの!
虚しい私の結婚生活に終止符を打つのよ。
やっぱり女は自分のことを一番に愛してくれる人と一緒になるのが一番だわ。ね? 片瀬?

ーーはい、お嬢様。全力でこの片瀬、お嬢様を生涯かけてお幸せにしてみせます

ーー頼もしいわー素敵だわーよかったぁ……よかったねー

ーーそうよ、私は女としての幸せをようやく知ったの。冷たくて感情のない不能な夫なんてあなたに熨斗をつけて差し上げますわ、琴子さん!

ーーええ? ノリをつけて? ノリで巻く入江くん? あ、ダメ、そんなこといったらあたしがまた変なものに巻かれたり拘束されたり妙なことされそ………

ーーや、やっぱり琴子さん、直樹さんとそんな関係!? しかも妙なプレイを?

ーーあー違うっ違います! この身体は処女……らしいです!

ーーじゃあ、やっぱり不能なのねっ

ーーいえ、そーゆーわけではないと……


「……………あ、なんかちょっと色々思い出してきた」

頭を押さえて昨夜の記憶を辿る。

「………そっかぁ、沙穂子さん………プロポーズ受けたんだ」

散々な直樹との結婚生活を聞かされて、思わず同情してしまったが、それでもまだ沙穂子が直樹を想っていたなら、それはそれでやっぱり切ないなーと思っていた。
間違いなくずっと直樹を想っているだろうこっちの世界の琴子にとっても。

ーー女としての幸せを知った今、ただひとつ気になるのはあなたとのことですわ! イブの夜にいったい何があったの? 彼はやっぱりあなたにも手を出さないの?
あなたは一生プラトニックでも平気なの?

ーーへ?

ーーセックスレス夫婦の先輩として忠告しておきますわ! 私も、最初はこのまま直樹さんと夫婦でいられるなら一生清廉な関係でも構わないと思ってましたの。逆にその方が純愛のようで素敵とも。
でも、そんなの最初の数ヶ月。身も心もどちらも愛されない辛さ、言葉には尽くせませんわ!
あなたももし、直樹さんが不能だとしてもちゃんと愛せますの? プラトッニックで構わないなんて乙女なこと考えてませんこと?

ーーえーと………………

お嬢様がセックスレスだの不能だの連呼していて答えに困っていたことを思い出した。

「…… さすがに前の日の出来事までこのメモに更新されてなかったみたいだなー。お嬢さん、随分な急展開だったんだー」

ノンちゃんは妙に感心したように、例の真っ白なメモ帳をパラパラ捲ると、
「お、ラストページに新たに更新されてる。『琴子さん、直樹さんとロイヤルホテルでディナー。シャンパン一杯で具合の悪くなった琴子さんを部屋に連れていく。沙穂子さんはその後をつけて部屋の前で様子を伺っているうちに、SPの片瀬さんがプロポーズ!』………だって」

「へぇぇぇぇ……!……ってそれより、なんであたしは入江くんと呑気にディナーなんてしてるのよ! そんでもって部屋に連れ込まれたの?」

「ストーカーの如く付きまとってくる直樹さんときっちり話をつけようとわざわざ秋田行く途中で東京で降りたらしいね。なんだかんだ言いくるめられてここのホテルのレストランで食事する羽目になったわけだけど、直樹さんの制止をふりきって気合いをいれる為に飲んだシャンパンであっという間に酔っ払ったみたいだね」

「……そ、そして部屋に連れ込まれたのっ?」

直樹が琴子に対して激しい執着を示して付きまとっているというのも、何だか自分の世界とはまるで逆で、ちょっと羨ましい気もするが、当の琴子はかなり複雑だったろうな、と思う。

「……何もなかったってことだよね? 入江くんさっさと部屋出てったってことは」

「だから一応、このメモには琴子さん処女って」

「だからなんなのよーーっそのメモは~~っ」

取り上げようとしたがそのメモもすうっと通り抜けて掴めない。

「詳しいことは本人に聞かないと……ってもう時間あまりないけど、直樹さんに会う?」

「会うって……」

「電話。昨夜、何度もあったの覚えてる?」

「電話? ………?」

琴子は起きてごそごそと携帯を探して見る。

「あー! 入江くんとお父さんから交互に電話、何回も来てる!」

着歴を見ると特に直樹は夜半過ぎまで15分おきくらいにかかってきていた。

うわー本当にストーカーちっくだー。沙穂子さんにしろ、入江くんにしろ、なんかこっちの世界の人たち、あたし以上に変な方向にパワフル?
にしても、その情熱をあっちの入江くんにも分けてほしい。
………というか、こっちの入江くんが気がつくの遅すぎるんだわ。その反動ね、きっと。
あたしのことずっと昔から好きだったクセしてさ。

「さすが、琴子さん直樹さんに関しては妙に自信があるんだねー」

「え? あたし、声に出してた?」

「まあね」

「………入江くんに電話して、会うこと出来るのかな?」

「会いたい?」

「うーん。もう時間ないよね。でも一言言ってやりたい気もするし、あたしはこっちの二人のことに関わっちゃいけない気がするし」

「そうだね。琴子さんはもうすぐちゃんと旦那さんである直樹さんのところに帰るわけだし。帰るつもりならこっちの事情に深く関わっちゃいけない」

「………うん」

それでも少し心に引っ掛かるものがあるのか携帯を手に取って、何度も着信履歴に連なる直樹の名前を見続ける。

と、唐突に電話が鳴った。

「い、い、入江くん?」

ドキッとして相手を確認する前に電話を受けてしまった。

『琴子! 一体何処にいるんだっ』

「お父さんっ」

父だった。
一声だけでも怒り心頭なのが分かり、思わず居住まいを正す。

「ごめ ………お父さん、今、実は友達と一緒で」

『理美ちゃんやじんこちゃんとは連絡取ったぞ』

「うん、二人とは違って………」

沙穂子をちらりと見る。
なんと説明していいのか分からない。
言葉を濁していると、

『うん、もーお父ちゃんたら、野暮なことは聞かないの! 琴子だっていい歳の娘なんだから~~』

ーーーお母さん!?

『おい、琴子、まさか直樹くんと』

『何いってんの、直樹くん、ゆうべ一人でお店に来たって言ってたじゃない』

『ああ、そうか』

受話器の向こうで父と母が言い合いをしている。
何だか不思議な気がして、ぼんやりと聞いていた。

似ているのかな? あたしの声と。

よく鶴三叔父さんに電話すると、悦子の声にそっくりだと言われたものだ。

もう高齢といって言い歳なのに、若々しく柔らかい声だ。

とはいえ、直樹が父に会いに行ったというのもすごく気になる。

『琴子、なんで、母ちゃん迎えに来なかったんだ。朝七時に東京駅着くって云ったろう?』

「え、あ、ごめんね。寝過ごしちゃって。もう、東京着いたんだね、お母さん」

本当にーーお母さん?

母の声など覚えていない筈だった。でも、電話から流れる声は何処か懐かしい。

『そう、今着いたばっかよー。あ、琴子、今、何処にいるの?』

「えーと、ロイヤルホテル……」

『まあ、高級ホテルじゃない! 誰かといるの?』

「友達と……まだ寝てるけど」

沙穂子を一瞥してからそう応えた。

『女の子だよね。わかるよ、琴子が嘘ついてないのは。
直樹くん、ゆうべお父ちゃんとこに挨拶に来たみたいよ』

「挨拶……? な、何の……?」

『プロポーズよ、プロポーズ!』

「へ? 入江くんがお父さんに!?」

『んなわけないでしょーっっぎゃははは』

琴子ってばウケる~~

受話器の向こうで苦しそうに大爆笑している。

あ、なんかこの笑い方、記憶の何処かにあるかも。

『まあ、色々順番が違うと思うから、お父ちゃんに塩撒かれて追い返されたらしいけど。それは仕方ないわよね』

「ええ?」

『詳しく聞きたい?』

「う、うん」

『じゃあ、続きは会ってゆっくりと。あ、でもお昼の新幹線でまた秋田に戻るからね。あんたも一緒だよ? おばあちゃんもあんたに会いたがっているし』

「ごめんね、あたしのせいで行ったり来たりさせて、心配かけさせちゃって」

『元気そうでよかったわ。どうせ1日したら会えるんだから秋田で待っててもよかったんだけど、どうしても今あんたに会わなきゃいけないような気がして、気がついたら夜行バスに飛び乗ってたの。あ、例のアレ買っておいたから、後で渡すね』

「例の……? 何?」

『フフ、琴子、欲しがってたじゃない』

「……何?」

『まあ、直樹くんがあんたに渡したとかいうものよりは、全然劣るけどさ』

「え? 入江くんがあたしに……?」

『もらったんでしょ? 指輪』

「指輪?」

『そーいや、あんた昨日たかだかシャンパンで随分酔っ払ってたらしいじゃない。覚えてないの? プロポーズされたことも指輪もらったことも』

え? まさかの二日連続酔っ払っい?

『あら、琴子。酔っ払ってて何て応えたか覚えてないわけ?』

「なんて………?」

『お母さんだって、父さんが直樹くんから聞いたことの又聞きなんだから。あなたから直接色々聞こうと思ったのに。えーと、今からどうしよう。琴子、朝ごはん食べた?』

「ううん、まだ……」

『じゃあ、何処かで食べる? あ、友だち置いてってもいいんだっけ?』

「うん、大丈夫だけどーーあ、じゃ、じゃあ、このホテルに来てもらっていいかな? あたし、すぐには動けないから……」

『そうなの? わかったわ、 えー、じゃあ、そこでモーニングビュッフェとか食べましょ! 朝食が美味しいって有名らしいじゃない。 今から行くから待ってて!』

「う、うん、あのね……」

『どうしたの? 琴子』

「すぐに来てね! 早く……なるべく早く……!』

ーーもう、時間がないから………

『……わかった! 超特急で行くから! お父ちゃん、タクシー捕まえて! じゃあ後でね!』

多分ご飯を一緒に食べる時間はない。色々ゆっくり話す時間もないかも知れない。
時計を見ると24時間のタイムリミットまであと1時間もなかった。
でも、会えるだけでもいい。
ほんの一瞬でも。

「とりあえず、ロビーでお母さんを待とう!」

こちらの琴子と直樹の行く末も気になる。
何だか急展開で事態が進んでいるようだ。

ーーでも、ちゃんと元に戻れるなら、あたしが余計なことはしちゃいけない。

すっごく気になるけれど。

「琴子さん、また電話……」

ノンちゃんが携帯を指差す。

「え? お母さん?」

「ううん、今度は……」

「入江くん!」

明るく光る着信表示には直樹の名前が浮かび上がっていたーー。








※※※※※※※※※※※※


更新ペースが遅くてスミマセン。
相変わらず寝落ちの日々です。
でもあと一話か二話くらいでケリをつける予定です。ほら、タイムリミットあと一時間もないから(笑)

それと、実は前の話、色々ミスがあって、ちょこっと修正してます。結婚して何年とか別居して何年とか、読み流して気づかない程度のことですが(笑)



大寒波再び(/。\)沖縄にも雪が? 暖冬が遠い過去のようです(笑)
事故や風邪には十分お気をつけ下さいませね。




2016.01.23 / Top↑




更新、だいぶ間が空いてしまいました。
年明けから仕事で新しいことを覚えなくてはならなくて………慣れないPC入力に悪戦苦闘し(ほら、私、パソ子じゃ一本指でしか文字打てないものでっ泣)すぐに忘却してしまう劣化しまくりの脳ミソを駆使しているせいか、家に帰ると頭うにうにで疲れきって直ぐに眠くなってしまうのでした……(._.)スマホに向かっては寝落ちする毎日(/。\)

いえまあ。
沙穂子さんにも悪戦苦闘しましたけどね(笑)
真っ黒お嬢な筈がただの可哀想なヒトになってしまった気がしますが………(^_^;どんなんでもOKという心の広い方のみ続きからどうぞ♪





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「駅までお送りするわ」

そう云われて思わず一歩引いて躊躇してしまった琴子だが、黒服の男たちが外に出て、有無を言わさぬ気配でドアを開けられ、仕方なく車に乗り込んだ。

ブランドのスーツに身を包んだその女性は、昔の記憶よりも随分髪を伸ばしているようだ。ふんわりと綺麗にウェーブのかかった栗色の髪は琴子と同じくらいの長さがある。
甘い香水の薫りが椅子に座った途端、つんと鼻腔をついた。
いい薫りなのだろうけれど、少し苦手だ、と内心思う。長時間乗っていたら、きっと酔ってしまうだろう。

「 あ、あの、ありがとうございます。東京駅までお願いします」

「ええ。でも、その前に少しお話できるかしら?」

「え?」

琴子がきょとんと沙穂子の顔を見つめたあと、視界の片隅に、ベンツのハンドルが東京駅とは反対方向の左に回されているのが見えた。

「ちょ………困ります! あたし、直ぐに秋田に行きたいんです。今すぐ行かないと………!」

母の顔を見てとんぼ返りするつもりなのに、間違いなく間に合わなくなる。

「 大丈夫よ。自家用ヘリで目的地まで送って差し上げるから」

「へぇ!?」

予想外の回答に素頓狂な声をあげてしまう。

「だから、付き合ってちょうだい。ほんのすぐ近くなの」

ふふっとにこやかな笑みを浮かべた顔は優しいけれど有無を言わさない。何となくぞわっと背中に悪寒が走る。

「沙穂子さん、でも……」

「ほら、もう着いたわ。ここで話しましょ」

本当にすぐだった。

「此処って」

近い筈だ。
ロイヤルホテル。
昨夜琴子が泊まったホテルーーエスカレーターでもう一人の琴子とすれ違ったあのホテルだったのだから。

「部屋を取ってあるの。来て」

最早拒否権は全くないようで、沙穂子のボディーガードとおぼしきサングラスに黒服の屈強な男たちが、琴子の両脇に立って歩みを進めるよう促していた。

何だか拉致されてる気分なんだけど……?

助けを求めるように実はすぐ近くを歩いているノンちゃんの方をちらりと見るが、「手は出せないよ」とばかりに両手をあげる。



「こちらへどうぞ」

「ここって………」

案内された部屋は昨夜直樹と泊まった部屋だった。
見覚えのある室内。
大きなベッド。綺麗にメイクされているが、シーツを激しく乱れさせて泳いだ昨夜の情事が思い出され、少し顔が熱くなった。
けれどその時間が何だか遠い昔のようにも思える。
現実だったのか、夢だったのか。
同じ部屋、同じ場所としか思えないけれど、ここではない違う世界なのだというのもひどく非現実的でーー自分の存在すら曖昧で心許ない。

「そうよ。あなた、昨夜、直樹さんとこの部屋を訪れた………でしょ?」

「ええ~~~!?」

仰け反りそうになってしまった。

「な、なんでそんなこと知って………いえ、ちょっと待って? えーと、こっちの琴子は……じゃなくてあたしはここに泊まったの?」

何故その事実を彼女が知っているのか、とか。
もう一人の琴子はやっぱり此処で直樹と一夜を過ごしていたのかーーとか。

いや、でもノンちゃん、琴子、バージンって言ってなかった……!?

いろんな意味で琴子の頭は一瞬のうちに錯乱してしまった。

「何をおっしゃってるの? 琴子さん。自分のこと、覚えてないの?」

不審げに眉を潜めて問いかける沙穂子に、
「 えーと、ごめんなさい、エスカレーターから落ちたショックで少し記憶喪失に……」と、とりあえずなんとか誤魔化す。

「ああ、そういえば、そうだったわね。お身体は大丈夫かしら? ………って、すぐに退院してるのだから大丈夫ってことよね?」

とても心配してるとは思えない春のような微笑みを返しながら、ふんわりと問う。

「ええ、身体の方は、何とか……」

戸惑いを隠せないまま、促されてソファに腰を掛けた。

「無事で良かったわ。私もあなたが突然エスカレーターから倒れ落ちた時にはどうしようかと思ったもの」

「え? 沙穂子さん、あそこにいたんですか?」

「救急車呼んだの、私よ……というか、ここにいる片瀬よ」

黒服の一人が無表情のまま微かに首をこくりと振った。

「ええーっ !そ、それはどうも………あれ……? でも、何で?」

何故、彼女があのホテルにいたのか?
しかも朝、そこそこ早い時間だった筈である。

「だって、あなたが東京に着いてからずっと後を付けてたんですもの」

「ええーっ! ストーカー!?」

「琴子さんにストーカー呼ばわりされたくありませんわ。この資料によると、琴子さんの方がどう見ても筋金入りのストーカーじゃありませんか」

「どの資料?」

沙穂子がバッグから取り出したB4サイズの茶封筒をじっと見つめた。

〇〇調査会社ーー

ちらりと封筒に印刷された文字が読めた。

「調査会社って……つまり探偵屋さん……?」

「結婚前からも、結婚後もあなたの動向は調査させていただいてますの」

「はい……?」

沙穂子の言動に茫然と言葉を失う。

「それはそうでしょう? 自分の見合い相手の家に年頃の女性がずっと同居しているのですもの。だいたいお義母様だって見合いの席でとんでもないこと仰るし。だから、あなたのこと調べさせて、あなたが一方的にストーカーのように追い回していることは知っていたの。
とはいえ、調査書にはなかったけれど、直樹さんの態度から、何となく直樹さんにとってあなたがどういう存在なのか少しわかりかけてはいたわ。そして不安だった。ま、だから色々と手は打ったのだけれど」

「ええっと……?」

彼女の言葉の意味がよくわからない。

「あなたたちご一家が下関に引っ越された後も、向こうの調査会社にあなたの様子を報告するよう依頼してたわ。直樹さんもね。彼の秘書には逐一その日の行動を報告させてましたの。だって、結婚した後に二人が会っていたらイヤでしょう?」

そんなの当たり前よね? といった風に琴子に目で問いかける。

「そ、そんな。入江くんを信用してなかったんですか?」

「信用………? そうね、私の夫に相応しくない振舞いはしないという信頼はありましたけど……でもよくわからないわ」

「??………」

「……私たちは結局、一度もちゃんとした夫婦にはなれなかった」

ぽつりと呟く彼女の言葉に、ノンちゃんが云ってたことは本当だったの?ーーとぼんやり思う。

「 直樹さんの心にあなたがいるとわかっていて結婚を強行したのですもの。直樹さんだって、結局は私を選んだ。ならばいつかはちゃんと心が通うことがあるかもと願ってました」

悲しそうに瞳を伏せる。

「琴子さん、直樹さんとキスしたことありました? 同居してた時に。さすがに調査会社の資料にはその辺のことはわからなくて」

唐突に訊ねられて何を問われたのか一瞬戸惑った。

「ええ? いや、それは………」

あるにはあるけれど、1度目も2度目も微妙な感じで、それを上手く説明する自信もない。(2度目は記憶すらないし)

「もしかしてお義母さまがおっしゃるような、そういうご関係でした?」

「それはないです!」

そこはきっぱり即答。

「そうでしょうね。だって、直樹さん、そっちの方は………ダメなのでしょう?」

最後の方は小声で、つい三回ほど聞き返してしまった。

「はい……?」

何を言い出すのか、このひとはーーと思いつつーー

そういえばあたしもが入江くんをホモだと疑ったことがあったよね、と雪の日の夜を思い出した。

「結婚前、手すら握ってくれないのは、ただ紳士なのだと思ってました。キスくらい良いのにと思っていたけれど、結婚式が初めてのキス、というのもロマンチックで素敵だわと胸をときめかしておりましたの。なのに、あんまりじゃありませんこと? 結婚式ではキスもあと1センチで寸止めなんて! ゴージャスなレースたっぷりなヴェールで上手く隠して! 披露宴でのキスコールには全く聞こえないふりをしてスルーですのよ。場の雰囲気は台無しでしたわ」


そ、そうなのね。

琴子は何と云っていいのやら、複雑な心境だった。

自分の世界では、結婚式の祭壇の前、琴子からキスをして「ザマーミロ」と笑ったのだけれど、その後は牧師が何度も咳払いをするほどの長い時間、直樹からキスをされた。

あ、でも披露宴は私も最悪だったから、安心して、と心の中で意味不明なエールを送る。


「………ハネムーンのパリでは、昼間は美術館や博物館巡りで楽しかったのに、そのせいで、疲れたとすぐに寝てしまわれるし、向こうで一緒になった新婚夫婦がお医者さまカップルで、とても難しいお話を毎晩語り合って飲み明かしていましたわ、ハネムーンなのに! とうとう何事もなく過ぎてしまいました。 そして1ヶ月、会社を建て直すまでは忙しいからと殆どマンションに帰って来ませんでした。
私はずーっと放置されたままだったのですわ」

「さ、沙穂子さん……」

沙穂子の話に、琴子はつい己のことを思い出していた。

「わかる! わかるわ! ハネムーンの後に放置って辛いわよね。一体あたしは何なの?本当に結婚したの?って絶望的な気分にもなるわよ! そーなの! 入江くんってそーゆー冷たいところが昔からよくあったわー! あたしもどんだけ泣かされたことか……」

思わず立場を忘れて共感する琴子に、沙穂子は眉を潜めた。

「あなたに何がわかるというのです?」

「それがわかっちゃうのよ~~」

と、がしっと手を握って、おいおい泣き出す琴子に毒気を抜かれたように、沙穂子は少し落ちついた。


「詐欺ですわよね。結婚前はあんなに優しかったのに。いえ、結婚後も優しいのです。会えば丁寧に対応してくださいました。ずっとそんな感じで慇懃で他人行儀で。
でも、私は自分の理想の結婚生活を目指してたゆまぬ努力をしましたの。
多忙過ぎて倒れるのではと心配して初めの頃はお弁当を持っていったり、一生懸命健康と栄養を考えた手料理を準備したり……それはそれは頑張りましたの、私。
お弁当の重箱、綺麗に平らげられてると喜んだら、職場で全員に配られたときいて少しがっかりしました。
滅多に家で食事できないから、もう料理は準備しなくていいとも言われてしまいました。
でも、父も祖父も仕事優先で家庭を省みる人ではありませんでしたから、やはり日本の経済を担う企業人と言うのはそういうものなのだと自分を納得させてました。
そして、本当の夫婦になる気配もなくてーー。
マンションの寝室は、遅くに帰ることが多いからと最初から別々でした。
何度か私なりにアピールもしましたのよ。
でも、結局彼が私の部屋を訪れることは一度もありませんでしたの。
まさか……まさか、よく女性誌の見出しにあるような事態が私に訪れるなんて思いもしませんでしたわ。
結婚前、デートをしてても紳士で、色事に関しては淡白な方だとは知っていましたけれど…………まさかあんなに完璧な方が男として不能なんて………!」

ふう、と、目を伏せてこめかみを押さえる。

ーーええと、入江くんが不能? 淡白?

いや、どっちかといえば絶倫だし……めっちゃ毎日濃厚だし……

思わず云いそうになって慌てて口を塞ぐ。

琴子の知っている直樹とは全く符合しないし、女として沙穂子がひどく可哀想だとは思う。
思うけれど、でも。
入江くん、沙穂子さん、抱いたことないんだ。
別の世界の直樹でも、やっぱり他の女を抱いていると知るのは辛い。


「私は密かに色々いい病院を調べて、何とか受診するように遠回しに促したりしましたのよ」

「へ?」

「今ではいい薬も色々あるようだし」

「……………」

「女相手がダメなのか、誰でもダメなのか、何にしろ直樹さんの方に色々問題があるのだと思っていたのに、今さらあなたと浮気なんて」

話がぶっ飛んだが、いきなり自分のことに及んで怯む。
否定したいが、真実はわからない。
とりあえず天の声を信じるなら、何もない筈だ、と、ちらりと実はちゃっかり琴子の隣に座っているノンちゃんを見つめるが、彼は澄ました顔のまま何も云わない。

「………いいのよ、浮気なら。私だって大泉の家に育った以上、夫に妾の一人や二人いるのは当たり前だと思ってますもの。盆暮れに妾宅にきちんとご挨拶に行くくらい妻の務めだと理解してますから。でも、琴子さんだけはイヤでした」

じっと琴子を見据える。

二人の間にいやーな緊張感が走り、居心地がさらに悪くなる琴子である。

「………ごめんなさい、話が前後しましたわね。
とにかく、直樹さんとは形ばかりの夫婦として2年ほど過ごしました。私としては一緒にいるだけでも幸せだったのに、2年の間に共に過ごした時間って、1週間分もあるのかしら? というくらい少ない気もしましたわ。
それくらい彼は家に寄り付かなかった。
秘書の報告から彼は本当に仕事で忙しいだけというのはわかってました。女の気配の欠片もないって。
仕事の鬼のように、猛然と仕事に打ち込んで、それ以外の全てを遮断するような生活をしていました。
安心はしましたけれど、淋しいのは変わりありません。
いつか会社が安定したらきっともう少し落ち着いて生活が出来ると……ずっと……彼がちゃんと家に帰り、新婚生活をやり直せると信じて待ってました。
でも、2年過ぎたころ唐突に離婚を切り出されました。
海外進出の基盤を作るから当分日本に帰れないからと。あなたを戸籍で束縛しているのは申し訳ない、自由に生きて下さいーーって私、本当に意味がわかりませんでしたわ。
だって夫が海外に赴くなら付き従うのが妻の努めじゃありませんか。私なら海外での生活の経験もありますし、英語もフランス語も大丈夫。是非、連れて行ってくださいとお願いしたのに、ずっとホテル生活だし、危険な地域も行くから連れていけないと。何年も帰ることができないないので、放置することになってしまうから………などという言い訳を聴いて私笑ってしまいましたわ。
2年放置されているのに、何を今更って。
結局海外赴任に付いていくのは辞めました。やはり、遠い異国で独りぼっちで帰らぬ夫を待つのは不安ですもの。事実上の完全別居婚ですわ。けれど、離婚は承知しませんでした。
だって、別れたら直樹さんがあなたの元に行って再婚するのがイヤだったのですもの。直樹さんは離婚届に判を押して旅立っていかれたけれど、私は出しませんと伝えました。特に、もし琴子さんに会われるなら絶対に、押さないからと話しました。
その時、直樹さんは心底驚いたような顔で言いましたの。『なんでそこで琴子の名前が出るのかわからない』って……私の方が驚きましたわ。直樹さん、いまだ自分が琴子さんのこと想ってるって気付いてなかったってことに」

「……え?」

「……もっとも気がついていないから私と結婚できたのでしょうけれど」

「どうして、そんな風に思うんですか?」

「たまにしか一緒に過ごしませんでしたけれど、その短い時間の中でも、直樹さんが常に琴子さんの姿を捜しているような気配を感じたのです。何かを見てふっと普段見せないような微笑みを見せた時………どうにもあなたを思い出しているのではという気がしてーー」

例えば長ネギ料理。
滅多に食卓についてもらえませんでしたが、一度長ネギのマリネを作ったんです。焼いたネギをマリネソースに漬け込む、ちょっとした前菜ですわ。
そしたらしみじみとそれを眺めて微笑んでいるものですから、てっきり長ネギがお好きなのかと。それからあらゆる長ネギレシピを研究しましたのに、結局あまり口につけてはもらえませんでした。
別に好きなわけではないと言われました。
もしかして、あなたを思い出す何かがあるのかしらとその時初めて疑いました。

センター試験のニュースを懐かしそうにご覧になっていたり、会社が提供している戦隊もののビデオをぼんやり視聴されていたり。

なんだかあなたが隣にいるような錯覚が時折してしまいました。

ーーだからーーイヤなんです。

琴子の顔をキッと見据えてはっきりと云う。

「あなたとだったらそれは浮気にならない。きっと本気だから。そう思ってました。 だから彼があなたと会うのだけはイヤだったんです」

「………沙穂子さん……」

「本当に馬鹿な人。私が言ってもあの人は自分が誰を思っているのか気がついてなかったんですもの。
実際、別居して3年、海外に行くと言いつつ私のように探偵を使ってあなたを探させるかと思いきや、実際3年間ずっと世界中を走り回り1度も日本に帰らなかったようですわね。
お陰でパンダイは上場し、株も高騰、海外展開も順調でこの業界のトップクラス。祖父の会社も今世紀最大の業績を上げて、直樹さんの手腕に感服して、私の愚痴など聴いてもらえなくなりました。
そして半年前にようやく日本に戻ったのに、あの方は1度も私のところには来ませんでしたわ。すっかりその存在を忘れてしまったかのよう。
そして、日本に戻った途端、会社を辞めて医学部に入りなおしたとか。ええ、無論私には何も………
あ、これ全部調査会社の報告によりますの。私たち、別居してから3年、1度も会ったことありませんから」

何が可笑しいのかくすくすっと笑う。

「そして、3年間、1度も離婚届を出したかどうか確認の連絡もありませんでしたわ。ご自分の結婚が継続されているかどうかすら興味もないのね…………あら、また泣いてらっしゃるのね。どうしてあなたが泣くの?」

「何だか、可哀想。あなたも入江くんも………」

鼻をずるずる啜りながら、琴子はハンカチを目に押し当てていた。

「同情はまっぴらですわ。特にあなたからの」

「探偵を雇って逐一報告させるくらい、まだ入江くんのこと、好きなんですね………」

琴子の言葉に、「……好きでしたわ。とても。……いいえ、わからない。あなたの好きと、私の好きは何か違うもののような気もしますし」
そうぽつりと答えた時ーー

琴子の鞄から、電話の呼び出し音が鳴り響いた。

「ひえっ? 何?」

「携帯電話の音じゃありませんこと? 出られても結構ですわ」

「携帯? あたしの?」

バッグの中を探すと、確かに暗いバッグ内を携帯の灯りが照らしていた。

「やだ、こっちのあたしって、なんで携帯なんて持ってるのよー!あたしは未だに持ってないのに」

あたふたと携帯を出すが今一使い方がわからない。もたもたしている間に切れてしまった。

「お父さんからだ……」

そういえば父には後から店に行くと言って何の連絡もしていなかった。
電話をかけ直そうと少し悩む。使いなれなくて適当にボタンを押したら着歴の一覧が見えた。

「え………?」

着歴には、父の他に、入江直樹という名前がたくさんあった。

(入江くん…………)

ここ1ヶ月で急に連絡が来るようになっていたらしい。
しかし、自分の発信履歴には、彼の名前がないので、殆ど向こうから電話がかかってきていたようだ。

父に電話をかけようとモタモタしていたら、部屋の扉がノックされて突然ボーイがワゴンを持って入ってきた。

「ああ、ルームサービス頼んだの。ここのアフタヌーンティは絶品よ」

ワゴンの上にはよくテレビで見たことがあるような、三段のティースタンド。
サンドイッチやらプチケーキやらスコーンやらが美しく盛られていた。
ポーイが丁寧にティーポットから紅茶を注いでくれる。

「あ、あの、でもあたし………そろそろ……」

「お送りしてあげるといっているでしょう? もう少し私に付き合ってくださらない?」

「えーと、でも………」

「私、どうしても確認しておきたいの。1ヶ月前あなたと直樹さんが再会したのは偶然だと知っております。たまたま北九州の学会に訪れて再会されたのだと。
ただその後、何度もそちらに直樹さんが押し掛けたのは必然ですわよね? でも、あなたは会うことを拒否して追い返してる。何故ですの。もう、あの人のことを忘れてしまったから? 」

「 それはーー」

………あたしってば入江くん追い返してるの?

内心驚きつつも、その行動に納得するものもある。

自分はもう一人の琴子じゃないから、その真意は違うものかもしれないけれど、それは多分ーー

「忘れられるわけないじゃない。そんなの、絶対。忘れられないけど、あたしが会おうとしなかったのは、入江くんが結婚している人だったからに決まってるよ」

いくら別居していたって、沙穂子さんと結婚している以上、好きになってはいけない人だ。
そんなこと、当たり前。

「………離婚届が出されたかどうか気にもしてなかった直樹さんが、初めて区役所に確認に行ったようで、私にも3年振りに連絡をとってきたわ。ーー離婚届をそろそろ出して欲しいって」

紅茶のカップを優雅に口許に運びながら、世間話と変わらないように、自然と話をすすめる。

「…………ひどい」

「何がひどいの? ずっと離婚届を出さずにいたこと? いやな女と思うでしょうね。でも………」

「違うわ! ひどいのは入江くんよ! 沙穂子さんにずっと辛い思いさせて、一体女をなんだと思ってるの!? 」

涙を一杯溜めて激しく憤慨する琴子に、呆気にとられた沙穂子は、危うく紅茶を溢しそうになった。

「何故、あなたが怒るの?」

「怒るわよ! 沙穂子さんだってもっと怒っていいと思う! なんなら慰謝料踏んだくってやっても………」

「もし、あなたと直樹さんがそういう関係になったら、私、あなたに慰謝料請求しようと思ってました。それを待っていたのに、あなたは決して直樹さんを受け入れようとはしない………でも、あなたが東京に来ると聞いて、ずっと張ってましたの。二人でホテルで食事したあと、部屋に入っていって………いよいよかと思いきや、1時間ほどで直樹さんは出ていってしまうし。結局一晩見張らせたけれど、直樹さんは戻らなくて、あなたは部屋に一人………朝早くチェックアウトしたと思ったら再び戻ってきてエスカレーターから落っこちて……一体、何があったのかしら…………」

へーそうだったんだー。

普通にびっくりしてしまう琴子である。
けれども何があったのか知りたいのは自分も同じで。

そ……それは………私が訊きたいです……


そんなことを思っている間に再び携帯の呼び出し音が鳴り響いた。
今度は慌てず、ちゃんと出ることが出来た。

「お、お父さん? ごめんね、心配かけて。今ちょっと、友だちと会ってて………違うって! 入江くんじゃないからーーもう、信用してよ!
え? お母さん? 来るの? こっちに?
夜行バスで……えーっと、明日の朝の7時着だね。分かったよ。うん」

結局、心配で居てもたっていられなかったのか、悦子は夜行バスで東京に向かうらしい。

ある意味、琴子と行き違いにならなくてよかったというべきか。

「うん、しばらくしたらふぐ吉に行くから……だから、本当に入江くんじゃないって~~~もっと娘、信じてよ~~っ」

ーーとにかく、おまえ、まだ調子は完全じゃないだろう。さっさと帰ってくるんだ………へい、らっしゃい!

電話の途中で誰かお客が来たらしい。ふぐ吉の店の電話からかけてきたのだろう、周囲のざわめきが漏れ聞こえていた。

「じゃあ、切るよ、お父さ……」

ーーご無沙汰してます、おじさん

ーー直樹くん!?

「ええーーっ」

受話器の向こうで直樹の声がして、そのままがちゃりと切られてしまった。

「ちょ………ちょっと待って……お父さん!」

ツーツーツーと機械音しか響かない携帯に向かってつい大声を出してしまう。

「どうかされました?」

沙穂子が近くに居たことを思い出して、「えっと。いえ、なんでも………」
慌てて誤魔化す。

「えーと、父が心配しているので戻らなきゃ……」

直樹と重雄が会っているというのがすごく気になる。飛んで帰りたい。
………というか、直樹に会いたい。
こっちの世界の直樹には色々物申したいことが山盛りだ。沙穂子さんの話をきいて、あまりにも感情のない直樹の所業に愕然としてしまった。

こっちの直樹は沙穂子さんを選んだ筈なのに。自分で選んだクセに。
なのに、自分で結婚生活を破綻させてしまって………
あんまりだーー。
きっと、こっちの琴子も随分辛かったろうし。
二人の女を不幸にして、なんて酷いヤツなの!

そう憤慨する一方で、やっぱり顔が見たい、会いたいって思ってしまう。

「じゃ、あたし………」

立ち上がろうとした琴子の腕を、沙穂子ががっしりと掴んだ。

「ダメよ。帰さないから」

ええーっ 沙穂子さんっ目が怖いっ!

琴子は思わず身を一歩引いてしまう。

「いえ、でも………」

「人の話ばっかり聴いて自分のこと話していらっしゃらないわ」

いや、それはあなたが一方的に自分のことばっかお話になられてるだけで!
あたしは自分のことは何も話せませんから~~~

じりじりと逃げようとする琴子に、沙穂子はふふっと笑って宣言した。

「さあ、今夜は飲み明かしましょう」

「はい?」

「片瀬! あれ持ってきて!」

扉の前にたっていた黒いスーツの長身の男が、すっとケースの中から一本のワインとソムリエナイフを出して、流麗な手技で栓を開ける。

「ロマネ・コンティよ。お祖父様のワインセラーからいただいてきたの。あ、勝手にね。結局は私より仕事の利益を選んだお祖父様へのささやかな復讐なの。さ、どうぞ」

綺麗な葡萄色の液体が片瀬と呼ばれた男によってワイングラスに注がれる。

「このグラス一杯で5万くらいするのよ。さあ、飲んでちょうだい」

「いえ。あたしお酒は………」

「あ、おつまみも欲しいわね! 片瀬! 何か頼んでちょうだい」

「かしこまりました。お嬢様」

「さあ、乾杯しましょ。付き合ってくださったらこれあげるから」

沙穂子は楽しそうにバッグから一枚の封筒を出した。

「ご覧になって? あとで差し上げるから」

琴子が中味を確認すると、それは離婚届だった。
直樹の署名も沙穂子の署名もあった。

「沙穂子さん………これ」

「さあ。付き合ってもらえるわね? かんぱーい」

沙穂子はかつんと勝手に琴子のグラスに重ねると、ぐいっと高級ワインを一気に飲み干す。

「沙穂子さん、そんな飲み方……」

「あなたワインの飲み方云々言うほどワインのことわかってらっしゃるの?」

「いえ………」

「じゃあ、あなたも飲んで」



そして、僅か30分後には酔っぱらいの女二人、ホテルの一室でエンドレスに愚痴を言い合っていたのだったーー。











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『コトサホでサカモリ』

何だかお笑いのお題のようなフレーズが頭から離れなくて笑

琴子とお嬢が酒飲んでくだ巻いてる話はさすがに読んだことはないなーと。

いや、しかし、私、限定でなくフツーにアップしちゃっていいのかな? と、ちょっとどきどき(^_^;) こんな沙穂子さんの一人語り、誰も読みたい人はいないでしょうが、つい書いてしまいました。
イリサホや黒お嬢様は諸先輩方の名作がありますので、類似品になってしまうのは否めませんがf(^^;
しかし、苦戦………。
沙穂子さん絡むと精神的にキツくなるわね~~~(._.)

しかも、なんだよこの直樹さん。ブーイング必至な野郎ですね………(ーー;)

では、次回『愛と哀しみの関門海峡』を待て!(←ウソです。書きません)







2016.01.14 / Top↑